2012年12月14日

『回想十年』吉田茂

 “烏合の衆”とはよく言ったものだ。
 自由民主党の左派から、民政党から、新党友愛から、民主改革連合から、松下政経塾から、そして自民党で公認を得られなかったから鞍替えして出馬、合流。まさに烏合の衆であった。

 新自由主義の模索と言いながら、消費税増税へ。政治主導と言いながら、官僚主導へ(シロアリ官僚に復興費は喰い尽されようとしている)。リベラルだったはずの対米政策も、鳩山の失敗で委縮し、集団的自衛権を容認する方向へと舵がとられつつある。オスプレイ容認もこれが遠因である。
 結局のところ。政策の思想、この基軸をまとめることが出来なかったことが、民主党の3年間であった。失政である。

 民主党は分裂したが、出て行った者もまたぞろ鞍替えを重ね、維新や未来なら勝ち目があるとばかり厚顔無恥ぶり甚だしい。最後まで烏合の衆ぶりを発揮している。
維新、未来もまた然りである。
 これでは小さくまとまった小粒揃い。“太い”奴は出てこないものか。

響く言葉がいくつかある。
肝に銘じたい。

「権勢の所在を目ざとく察知するとともに、これに接近を図り、阿諛(あゆ)し追従し、さらにこれを利用して自己の地歩を築いてゆく、政治家として最も歩み易い安易な道であるかもしれぬが、同時に辿ってはならぬ道でもあるのである。
 ここで権勢というのは、必ずしも占領軍とか、大臣の地位とか、あるいは武力とかいったものだけではない。いわゆる世論とか、労働組合とか、また時代の風潮とかが、目に見えぬ圧力となる場合がある。そうしたものを自己の背景とし、あるいは手段として、地歩の向上を図ろうとするなどは、政治家として最も唾棄すべきものである。いわんや何等主義主張なく。ただ金力をもって人を集め、集めてもって勢力とし、また金を集めるそのボス的な存在は、市井浮浪の輩の類であって、政界に共に處すべからざるものである。かかる存在のある限り、政界の浄化は望み難く、これは明らかに政党政治、民主政治の癌といわねばならない。」[()内のよみは原本においてはルビ]

「民主政治は多数の政治である。一度党首や首班が多数投票で決定した以上は、党員たるものは、従来の行掛りにこだわることなく、虚心坦懐にその党首または首班の指示に従い、これを助けて、政治の運営を全からしむる決心、覚悟がなくては、真の民主政治家とはいえない。国家全局の利害を忘れ、各派各様の利害を以て動く間は、立派な民主政治の実現は覚束ないのである。」

外交に関してはこうである。

「外交は小手先の芸でもなければ、権謀術数でもない。国力を土台として細心の経営、不断の努力を以て、国運を開く外に正しい外交の道はない。小手先の芸や権謀術数によって国の利益を図ることは、一時は成功するやに思われても、長い目で見れば、その間おのずから失うところが、得るところ相殺し、却って長く不信の念を残すに至るもので、その事例は殊に近代の歴史に少くない。むしろ大局に着眼して、人類の平和、自由、繁栄に貢献するの覚悟を以て、主張すべきは主張し、妥協すべきは妥協する。そして列国の間に相互的信頼と理解とを深めてゆかねばならぬ。いささかも面従後言の挙に出て、信を外に失うべきではない。これが真の意味の外交である。」

「徒らに目先きの国際情勢の変転に一喜一憂して、国の外交を二、三にするのは、愚かなことである。正をとって動かざる大丈夫の態度こそ、外交を行うものの堅持すべきところであろう。」

そして我々国民にも言えることがある、

「こんな時にこそ国民性が顕われるもので、平素とかく大人ぶったり、知ったかぶりするくせに、いうべき時にいうべきことを言わず、しかして事後において、弁解がましきことを言い、不賛成であったとか、自分の意見は別にあったなどいう者が多い。」

そして、エドワード・ハウス大佐(米 1858〜1938)の言葉として。
「“ディプロマティック・センス”のない国民は、必ず凋落する」


【今回紹介した本】
『回想十年』吉田茂
新潮社
第1巻 昭和32年7月10日発行
第2巻 昭和32年9月10日発行
第3巻 昭和32年10月30日発行
第4巻 昭和33年3月15日発行
各¥340(当時)

【著者資料】
吉田茂(よしだ・しげる)
明治11(1878)年、東京生まれ。
39年、東京帝国大学法科を卒業、外務省に入省。
天津・奉天の総領事、昭和3年田中内閣の外務次官、駐伊・駐英大使などを歴任し、14年退官。
戦後、東久邇・幣原内閣の外相。21年自由党総裁となり第一次吉田内閣を組閣、日本国憲法制定、第二次農地改革にあたる。片山・芦田内閣のあと、23年から29年まで第二〜第五次の内閣を組閣。その間、サンフランシスコ講和会議に出席し、対日平和条約・日米安保条約に調印する。
42(1967)年没、国葬。

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2011年04月14日

『放射線はなぜこわい――生命科学の視点から』柳澤桂子/ 『人は放射線になぜ弱いか――少しの放射線は心配無用』近藤宗平

 東海村JCO臨界事故が起きたのは、1999年9月30日だった。10日ほどたって、取材のため現地に入った。ヨウ素131の半減期は8.04日。念のための措置であった。
 畑の大根はすべて引き抜かれ、無造作に捨てられていた。風評が飛び、土地の価格も値がつかなくなった。今回の福島第1原子力発電所の事故同様、マスコミによる煽りでパニックが起こったが、深刻さではJCO事故をはるかに超えている。
 水素爆発で建屋が吹っ飛び、骨組みだけが残った無残な姿は、広島の原爆ドームを思わせた。

 JCO事故の折、取材の参考のためにと数々の論文や資料に当たった。いずれも大量の放射線被曝は人間を死に至らしめるため、極めて危険であるという認識である。当然と言えば当然である。だが、少量の放射線に関しては意見が分かれている。
 少量の放射線でも危険であるという主張は、例えば柳澤桂子『放射線はなぜこわい――生命科学の視点から』(地湧社)がある。
 人間の体は細胞からできているが、この細胞は分子から、分子は原子からできている。原子の中心には原子核があり、陽子と中性子で構成されている。そして、その周りを電子がまわっている。
 放射線がひとつの原子に当たると、その原子から、電子が大きなエネルギーをもって飛び出し、行く先々で無数の分子にぶつかって、エネルギーを少しずつ分け与える。これによってぶつけられた分子は興奮状態になったり、電離原子(電子を失った原子)になったりする。放射線の影響とは、こうした電離原子による複雑な化学反応によって引き起こされる。
 少量の放射線を浴びて、表面上、何の変化も認められなくても、放射線はDNAを傷つけ、切断するなどして、突然変異を引き起こすという。その結果、細胞がガン化したり、奇形児が生まれたり、またDNAの傷が子孫に伝えられて蓄積する可能性があると述べている。

 一方、少量の放射線ならば大丈夫というのが、近藤宗平『人は放射線になぜ弱いか――少しの放射線は心配無用(第3版)』(講談社ブルーバックス)である。
 国際放射線防護委員会(ICRP)では、「直線しきい値なし仮説」を採用している。被曝による発ガンの危険率には「安全量」(その線量以下なら危険率がゼロ)はない、というものである。つまり線量の多寡を問わず、発ガンの危険性があるという考え方である。
 ところが、原爆放射線によるその後の人体への影響を調査した研究でも、チェルノブイリ原発事故後の周辺のベラルーシでの調査でも、少量の放射線による影響は認められなかったという。「発ガンの危険がある」ということを証明できなければ、通常「発ガンの危険はない」と考える。なぜなら科学は「ない」ということを証明できないのだから。
 誤解のないように言っておきたい。放射線は危険である。ただし、その線量如何である、ということだ。10Sv(シーベルト)〜100Svの被曝では全員が数日から2カ月の間に全員死亡するといわれている。ところが、10mSv(ミリシーベルト)以下ならもはや心配しても仕方がないレベルだし、さらに1mSv以下なら自然放射線による日常被曝の程度である。この量をどう判断するか、ということである。

 ただ今回の事故に関して、プルトニウムに関する政府の見解がまずかった。その見解をそのまま垂れ流したマスコミはもっとひどかった。
 α線は紙1枚も突き抜けることができない。つまり紙1枚で防げる。
 プルトニウムを飲み込んでも、排泄されて体の外へと出てしまうから大丈夫。
 酸化プルトニウムは質量が重いので、30km以上飛ぶことは考えにくい。

 上の2つは、動力炉・核燃料開発事業団によるPRビデオ「頼れる仲間プルト君――プルトニウム物語」のなかで“プルト君”も自信たっぷりに言っていた。

 呆れてものが言えない。
 プルトニウムはたった一か所にあるのではない。水蒸気爆発で周辺に飛散したはずだ。紙1枚で防げるのなら、全身を紙で覆うのか? しかもプルトニウム粒子は肉眼で確認できない。彼らは実験室の中で事故が起きているとでも考えているのだろうか。現場なんですけど。
 プルトニウムはα線を出し続ける。肺に沈着せずに、幸いにして消化器官に入ったとしても、排泄されるまでの間は被曝し続ける。勿論、飲み込んだ量によってダメージの深刻度は変わる。
 酸化プルトニウムは質量が重い。確かに比重は金と同程度の重さである。しかし、日本には毎年、黄砂が飛んできている事実を忘れたのであろうか? 粒径10μm(=0.01mm)の黄砂は比重が2。プルトニウムの比重は19.8だが、酸化プルトニウムの粒径は0.3μm。風に乗って飛ばないはずがないではないか。ましてやこれからは台風の発生する季節。早急に収束させないと、日本中にまんべんなく放射線物質が降り注ぐことになる。ただし、これも量の問題である。
 中学理科の仕事とエネルギーを思い出した。斜面から転がり落ちるボールが、下りきったところでぶつかった木片が数センチ動いた。斜面の高さと木片の移動距離に関する問題であるが、これには条件があった。空気抵抗や摩擦は無いものとする、というものだ。理論的には成り立つが、現実にはあり得ない。テレビの解説者の言い分には全くリアリティが感じられない。彼らにとっては、未だに空気抵抗や摩擦は無視していい存在であるかのような口ぶりである。

 JCO事故の取材で、ある論文を知った。当時のアメリカ核管理研究所(NCI)科学部長のエドウィン・S・ライマン博士の「日本の原子力発電所で重大事故が起きる可能性にMOX燃料の使用が与える影響」(1999年10月)である。慢心は危険だと主張するこの論文は、この福島第1原発で起こっている事故を見事に言い当てていた。
 MOX燃料は高速増殖炉で使うべきものであって、本来軽水炉で使用するものではないはずだった。それが各地の原発に持ち込まれている。このことが被害を甚大なものにしてしまったのだ。MOX燃料を使用する炉での事故は、通常の炉の事故よりもはるかに深刻な事態になるはずだが、これに対する国の原子力安全委員会の返答は、事故が大規模の被害を招くのは燃料が原発の外に放出された場合だけであるとしている。MOXのペレットは焼結されているため粉状になって発電所の外に運ばれることは実質的にあり得ない。したがって、プルトニウムの原発外への放出に至る事故の影響について評価する必要はない。これが彼らの間違った論理であった。だが現実はどうなったか?
 論文はまた、冷却材喪失事故や発電所停電のリスクについても触れている。まさに今の福島原発で起きていることだ。
 論文は以下のように締めくくっている。

 日本の規制担当者にとって、日本の原子力発電所が米国のものよりリスクが相当低いと考えるのはばかげている。したがって、日本は、軽水炉にMOX燃料を装荷し始めるというその計画を再検討しなければならない。米国の例にならって、重大な封じ込め機能喪失事故が――他の国におけると同じく――日本でも起こりうるという事実を受け入れ、その文脈においてMOX燃料の使用のリスクを評価すべきである。このような評価を厳密かつ正直に行えば、日本の当局は、MOX使用に伴うリスクの増大は、日本人にとって受け入れることのできない重荷であり、将来の日本の原子力産業の焦点は、通常の低濃縮ウランを使った既存の原子力発電所の安全な運転におくべきだ、との結論に至らざるを得ないだろう。
 
 当時、この論文の件で、科学技術庁や通産省の責任者に面会を求めたポール・レーベンソールNCI(核管理研究所)代表が、多忙を理由に断られたことを告白している。

 ところで、JCO事故の取材の折、参考にした資料に、原爆症による遺伝的な影響は認められなかったとする論文があった。この論文の筆頭著者の娘さんが、後に蛇崩の妻となるとはこのとき思ってもみなかった。



【今回紹介した本】
『放射線はなぜこわい――生命科学の視点から』(第3版)柳澤桂子
地湧社
1999年10月15日 2刷発行
¥650+税

『人は放射線になぜ弱いか――少しの放射線は心配無用(第3版)』近藤宗平
講談社ブルーバックス
1998年12月20日 第1刷発行
¥980+税

【著者資料】
柳澤桂子(やなぎさわ・けいこ)
1938年東京生まれ。
遺伝学者。

近藤宗平(こんどう・そうへい)
1922年福岡県生まれ。
大阪大学名誉教授。
posted by 蛇崩緑堂 at 16:15| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月02日

『死・墓・霊の信仰民俗史』新谷尚紀

 お骨をひろった。
 火葬場は暑く、変わり果てた姿はもうない。名残のお骨が横たわっていた。
 係員が慣れた様子で喉仏を指し、喪主に拾うよう促した。小さな骨壷にお骨をひろいあつめ、丁寧に入れる。とても入りきるものではないが、係員は責任をもって残りを処分するとのこと。結局は空き地に捨てるのだろう。
 すべてのお骨をひろって連れて帰りたかったが、それは出来なかった。

 新谷尚紀『死・墓・霊の信仰民俗史』(財団法人歴史民俗博物館振興会刊)を読んだ。
 日本は伝統的に土葬が一般的であったという。一部には火葬も執り行なわれたが、たいがいは身分の高い人に対してなされたようだ。
古くは大阪府堺市の陶器千塚古墳群のカマド塚から、人骨2体が発見されている。カマド塚とは、埋葬後に火をかけて遺骸を焼いた塚である。また、『古事記』を撰進した太安万侶の墓からも、墓誌、真珠4粒とともに、火葬骨が発掘された。
 万葉集にもこんなのがある。
  土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬(はつせの)山に火葬(やきはふ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首

   陰口(こもりく)の泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ

 また、
  溺れ死(みまか)りし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
ともある。
 あるいは、

   秋津野(あきづの)を人の懸(か)くれば朝蒔(ま)きし君が思ほえて嘆(なげ)きは止まず

   秋津野に朝ゐる雲の失(う)せゆけば昨日(きのふ)も今日(けふ)も亡(な)き人思ほゆ

とあり、火葬して灰をまく習慣もあったものとみえる。いわば散骨である。

 土葬ならば遺骸をそのまま土に埋めるため問題は生じない。だが火葬となると、その遺骨を散骨するか、納骨するかという問題が発生する。同時に墓、石塔の発生も生じてくる。

 鎌倉時代、浄土真宗の開祖・親鸞は遺言としてこう云い残した。
 「某(それがし)、閉眼セバ、加茂川ニイレテ魚ニアタフベシ」
 ところが、実際には洛東の鳥辺野延仁寺で火葬され、大谷に納骨されたという。この故事に倣ってか浄土真宗の門徒のなかには、火葬後に遺骨をわずかに残し、後は捨ててしまうという風習が残っていたという。遺骨は寺に納骨するという。
 すべてのお骨を連れて帰りたかったことによる困惑も、この話を聞いて少し晴れた。係員の言う“処分”も、言い換えると“散骨”だったのだ解釈も可能である。
 こう納得したい。

 小さいころ、寺町で育った蛇崩は、墓所を遊び場にしていた。当時、「忠霊塔」と呼んでいた石造りのモニュメントはお彼岸に鉄格子の扉が開かれた。暗い通路の両側にはおびただしい頭蓋骨が整然と並べられていた。暗がりのわりには、骸骨はうっすらと白く浮かび上がっていた。肝試しの場所だったが、怖くて二度と入らなかった。
 あれは火葬骨ではない。それにしては綺麗すぎた。


【今回紹介した本】
『死・墓・霊の信仰民俗史』新谷尚紀
財団法人歴史民俗博物館振興会刊
1997年11月13日 発行
¥700(税込み)

【著者資料】(当時)
新谷尚紀(しんたに・たかのり)
1948年、広島県生まれ。
早稲田大学大学院博士課程修了。
国立歴史民俗博物館教授
posted by 蛇崩緑堂 at 09:35| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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