2009年05月31日

『蜀山残雨――大田南畝と江戸文明』野口武彦

 世の中は 色と酒とが 敵なり どふぞ敵に めぐりあいたい

 南畝大田直次郎というより「蜀山人」と言った方が通りはいいかも知れない。とはいえ、上の狂歌は「四方赤良」を名乗っていた時代の作である。酒好きの南畝にあって、いつも周囲は赤ら顔ばかり、もちろん名乗った自分もご多分にもれず。それでこうした狂名をつけたのであろう。

 寛延2年(1749)に生まれ、文政6年(1823)に75歳の生涯を終えた南畝。「四方赤良」はそれまで親しんできた漢詩を崩したことで一躍有名になり、狂歌にも活動を拡げ、押しも押されもせぬ時代の寵児となった時期の名である。明和・安永・天明期、いわゆる田沼時代であった。
 その後、寛政の改革によって風俗矯正・出版統制が厳しく行なわれ、南畝のまわりにも司直の手が伸びていた。酒上不埒(さけのうえの・ふらち)の狂名で知られた恋川春町(こいかわ・はるまち)は『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』で幕政を揶揄したかどで、お上から召喚状が下された。病気を理由に自宅に引き籠っていたが、数ヶ月後に亡くなった。自殺という見方もある。また、以前から眼をつけられていた山東京伝もついに手鎖五十日となってしまった。
 ちなみに、恋川春町は小石川春日町に住んでいたことから「し」と「ひ(日)」をとって「こいかわ・はるまち」に、酒癖がひどかったことから「さけのうえの・ふらち」と名乗った。
また、“文武”で思い出した。

 世の中は 蚊ほど煩(ウル)さき ものはなし 文武文武(ブンブブンブ)と 夜も寝られず

この有名な狂歌は大田南畝の作ではない。南畝『一話一言』に「コレ太田ノ戯歌ニアラズ偽作ナリ」とある。上手い戯歌ならばすべて南畝が作ったもの、と誰もが思っていたほど、彼の人気と実力は広く知られていたのだろう。しかしながら、幕政批判で仲間がことごとく処分されていたのだから、南畝自身も心中穏やかではなかっただろう。いい迷惑と思っていたかも知れない。

 南畝はこの時期の自粛の時代をへて、大坂銅座に出張する。銅の異称である「蜀山居士」から「蜀山人」と名乗った。大坂在中に上田秋成にも会っている。
 こうした南畝の生涯を論じたのが野口武彦『蜀山残雨』(新潮社)である。まさに「評伝」の名にふさわしい。あまたの資料から紡ぎ、撚り、ひとつの織物に仕立て上げるこの手さばきは鮮やかというより他ない。タイトルもいい。“残雨”の余韻が静かに漂っている。蛇崩れにとっては、「評伝」の手本としたい名品である。

 それにしても、南畝の洒落もさることながら、仲間の狂名も振るっている。先の「酒上不埒」をはじめ、
「元木網」(もとの・もくあみ)[京橋で銭湯を経営]
「知恵内子」(ちえの・ないし)[元木網の妻]
「朱楽菅江」(あけら・かんこう)[与力]
「加部仲塗」(かべの・なかぬり)[左官の棟梁]
「蔦唐丸」(つたの・からまる)[版元・蔦屋重三郎]

じつにあっけらかんとして愛すべき名ばかりである。
 皆と夜っぴで呑み明かしたいものだ。
 落語「備前徳利」から、

 酒のない 国へ行きたい 二日酔い 三日目にはまた 帰りたくなる



【今回紹介した本】
『蜀山残雨――大田南畝と江戸文明』野口武彦
新潮社
2003年12月20日 発行
¥2,000(税別)

【著者資料】
のぐち・たけひこ
文芸評論家。1937年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒業、東京大学大学院博士課程中退。神戸大学助教授、教授を歴任。主な著書に『江戸の歴史家』(ちくま学芸文庫)、『「源氏物語」を江戸から読む』(講談社学術文庫)などがある。
posted by 蛇崩緑堂 at 12:00| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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