2009年07月30日

『茶の本』岡倉覚三

 中国禅の大家・趙州(じょうしゅう)和尚にこんなエピソードが残されている。

 ある日、新参の僧二人が趙州和尚のもとを訪ねると、和尚は、
 「前にもここへ来たことがおありか」と尋ねた。
 「ございません」と一人の僧が言うと、
 「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。[=きっさこ]
 もう一人の僧にも「前にもここへ来たことがおありか」と尋ねると、
 「来たことがございます」。「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。
 この様子を見ていた院主が和尚に、「かつて来た者にも、来ない者にも喫茶去とおっしゃるが、何故ですか」。
和尚は質問には答えずに、「院主さん」と呼んだ。院主は、すかさず「はい」と返事をすると、和尚は「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。

 茶道につながる茶の湯とは、もともと禅における「茶礼(されい)」からきているという。宋の時代、いわゆる南方禅宗が「茶」の儀式を確立したそうだ。後に元によって宋代の文化が破壊されてしまう。ところが、宋の茶は栄西禅師の帰国とともに日本に伝わっていた。彼が植え付けたうちのひとつが、京都の宇治である。本国では廃れてしまった習慣が、日本で生き延びたというわけだ。この茶の儀式を将軍足利義正が奨励したことで茶の湯は大いに花開く。
 日本の文化は「茶の湯」なしには語れず、また「茶の湯」がなかったらこれほど豊穣なものにはならなかっただろう。

 この「茶」という東洋精神の真髄を西洋世界に伝えたのが『茶の本』(岩波文庫)である。作者は、フェノロサに感化を深く受けた美術評論家・岡倉天心。すでに美術雑誌『國華』を創刊し(2008年に創刊120周年を迎えた)、東京美術学校の校長職を辞し、日本美術院を創立していた。ボストン美術館の東洋部顧問として1年のうち半分は彼の地に滞在していた。『茶の本』はその頃の作である。
 原題は『THE BOOK OF TEA』(1902年)。ニューヨークのフォックス・ダフィールド社から刊行されている。フランス語訳もドイツ語訳もその後に出され、天心の名は世界的に知られていたが、日本語訳は23年も遅れて雑誌に掲載されたという。
 「茶」をめぐっての珠玉の「エッセ」である。

 千利休は、「茶の湯とは、ただ湯をわかして茶をたてて飲むばかりなる本(もと)を知るべし」と言っている。この「本(もと)」こそ、天心が伝えたかったものかも知れない。

 岡倉天心といえば、もうひとつ。
 彼の作である日本美術院院歌の歌詞がいい。
 「谷中鶯初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
  奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」

 覚悟が在る。思想が在る。



【今回紹介した本】
『茶の本』岡倉覚三/村岡博・訳
岩波文庫
1929年3月10日 第1刷発行
1981年9月10日 第61刷発行
¥100(当時)

【著者資料】
おかくら・かくぞう
美術評論家。1862年〜1913年。東京美術学校校長、日本美術院創立、ボストン美術館顧問。東洋美術の紹介に努めた。
posted by 蛇崩緑堂 at 22:08| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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