2010年11月02日

『死・墓・霊の信仰民俗史』新谷尚紀

 お骨をひろった。
 火葬場は暑く、変わり果てた姿はもうない。名残のお骨が横たわっていた。
 係員が慣れた様子で喉仏を指し、喪主に拾うよう促した。小さな骨壷にお骨をひろいあつめ、丁寧に入れる。とても入りきるものではないが、係員は責任をもって残りを処分するとのこと。結局は空き地に捨てるのだろう。
 すべてのお骨をひろって連れて帰りたかったが、それは出来なかった。

 新谷尚紀『死・墓・霊の信仰民俗史』(財団法人歴史民俗博物館振興会刊)を読んだ。
 日本は伝統的に土葬が一般的であったという。一部には火葬も執り行なわれたが、たいがいは身分の高い人に対してなされたようだ。
古くは大阪府堺市の陶器千塚古墳群のカマド塚から、人骨2体が発見されている。カマド塚とは、埋葬後に火をかけて遺骸を焼いた塚である。また、『古事記』を撰進した太安万侶の墓からも、墓誌、真珠4粒とともに、火葬骨が発掘された。
 万葉集にもこんなのがある。
  土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬(はつせの)山に火葬(やきはふ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首

   陰口(こもりく)の泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ

 また、
  溺れ死(みまか)りし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
ともある。
 あるいは、

   秋津野(あきづの)を人の懸(か)くれば朝蒔(ま)きし君が思ほえて嘆(なげ)きは止まず

   秋津野に朝ゐる雲の失(う)せゆけば昨日(きのふ)も今日(けふ)も亡(な)き人思ほゆ

とあり、火葬して灰をまく習慣もあったものとみえる。いわば散骨である。

 土葬ならば遺骸をそのまま土に埋めるため問題は生じない。だが火葬となると、その遺骨を散骨するか、納骨するかという問題が発生する。同時に墓、石塔の発生も生じてくる。

 鎌倉時代、浄土真宗の開祖・親鸞は遺言としてこう云い残した。
 「某(それがし)、閉眼セバ、加茂川ニイレテ魚ニアタフベシ」
 ところが、実際には洛東の鳥辺野延仁寺で火葬され、大谷に納骨されたという。この故事に倣ってか浄土真宗の門徒のなかには、火葬後に遺骨をわずかに残し、後は捨ててしまうという風習が残っていたという。遺骨は寺に納骨するという。
 すべてのお骨を連れて帰りたかったことによる困惑も、この話を聞いて少し晴れた。係員の言う“処分”も、言い換えると“散骨”だったのだ解釈も可能である。
 こう納得したい。

 小さいころ、寺町で育った蛇崩は、墓所を遊び場にしていた。当時、「忠霊塔」と呼んでいた石造りのモニュメントはお彼岸に鉄格子の扉が開かれた。暗い通路の両側にはおびただしい頭蓋骨が整然と並べられていた。暗がりのわりには、骸骨はうっすらと白く浮かび上がっていた。肝試しの場所だったが、怖くて二度と入らなかった。
 あれは火葬骨ではない。それにしては綺麗すぎた。


【今回紹介した本】
『死・墓・霊の信仰民俗史』新谷尚紀
財団法人歴史民俗博物館振興会刊
1997年11月13日 発行
¥700(税込み)

【著者資料】(当時)
新谷尚紀(しんたに・たかのり)
1948年、広島県生まれ。
早稲田大学大学院博士課程修了。
国立歴史民俗博物館教授
posted by 蛇崩緑堂 at 09:35| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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