2012年12月14日

『回想十年』吉田茂

 “烏合の衆”とはよく言ったものだ。
 自由民主党の左派から、民政党から、新党友愛から、民主改革連合から、松下政経塾から、そして自民党で公認を得られなかったから鞍替えして出馬、合流。まさに烏合の衆であった。

 新自由主義の模索と言いながら、消費税増税へ。政治主導と言いながら、官僚主導へ(シロアリ官僚に復興費は喰い尽されようとしている)。リベラルだったはずの対米政策も、鳩山の失敗で委縮し、集団的自衛権を容認する方向へと舵がとられつつある。オスプレイ容認もこれが遠因である。
 結局のところ。政策の思想、この基軸をまとめることが出来なかったことが、民主党の3年間であった。失政である。

 民主党は分裂したが、出て行った者もまたぞろ鞍替えを重ね、維新や未来なら勝ち目があるとばかり厚顔無恥ぶり甚だしい。最後まで烏合の衆ぶりを発揮している。
維新、未来もまた然りである。
 これでは小さくまとまった小粒揃い。“太い”奴は出てこないものか。

響く言葉がいくつかある。
肝に銘じたい。

「権勢の所在を目ざとく察知するとともに、これに接近を図り、阿諛(あゆ)し追従し、さらにこれを利用して自己の地歩を築いてゆく、政治家として最も歩み易い安易な道であるかもしれぬが、同時に辿ってはならぬ道でもあるのである。
 ここで権勢というのは、必ずしも占領軍とか、大臣の地位とか、あるいは武力とかいったものだけではない。いわゆる世論とか、労働組合とか、また時代の風潮とかが、目に見えぬ圧力となる場合がある。そうしたものを自己の背景とし、あるいは手段として、地歩の向上を図ろうとするなどは、政治家として最も唾棄すべきものである。いわんや何等主義主張なく。ただ金力をもって人を集め、集めてもって勢力とし、また金を集めるそのボス的な存在は、市井浮浪の輩の類であって、政界に共に處すべからざるものである。かかる存在のある限り、政界の浄化は望み難く、これは明らかに政党政治、民主政治の癌といわねばならない。」[()内のよみは原本においてはルビ]

「民主政治は多数の政治である。一度党首や首班が多数投票で決定した以上は、党員たるものは、従来の行掛りにこだわることなく、虚心坦懐にその党首または首班の指示に従い、これを助けて、政治の運営を全からしむる決心、覚悟がなくては、真の民主政治家とはいえない。国家全局の利害を忘れ、各派各様の利害を以て動く間は、立派な民主政治の実現は覚束ないのである。」

外交に関してはこうである。

「外交は小手先の芸でもなければ、権謀術数でもない。国力を土台として細心の経営、不断の努力を以て、国運を開く外に正しい外交の道はない。小手先の芸や権謀術数によって国の利益を図ることは、一時は成功するやに思われても、長い目で見れば、その間おのずから失うところが、得るところ相殺し、却って長く不信の念を残すに至るもので、その事例は殊に近代の歴史に少くない。むしろ大局に着眼して、人類の平和、自由、繁栄に貢献するの覚悟を以て、主張すべきは主張し、妥協すべきは妥協する。そして列国の間に相互的信頼と理解とを深めてゆかねばならぬ。いささかも面従後言の挙に出て、信を外に失うべきではない。これが真の意味の外交である。」

「徒らに目先きの国際情勢の変転に一喜一憂して、国の外交を二、三にするのは、愚かなことである。正をとって動かざる大丈夫の態度こそ、外交を行うものの堅持すべきところであろう。」

そして我々国民にも言えることがある、

「こんな時にこそ国民性が顕われるもので、平素とかく大人ぶったり、知ったかぶりするくせに、いうべき時にいうべきことを言わず、しかして事後において、弁解がましきことを言い、不賛成であったとか、自分の意見は別にあったなどいう者が多い。」

そして、エドワード・ハウス大佐(米 1858〜1938)の言葉として。
「“ディプロマティック・センス”のない国民は、必ず凋落する」


【今回紹介した本】
『回想十年』吉田茂
新潮社
第1巻 昭和32年7月10日発行
第2巻 昭和32年9月10日発行
第3巻 昭和32年10月30日発行
第4巻 昭和33年3月15日発行
各¥340(当時)

【著者資料】
吉田茂(よしだ・しげる)
明治11(1878)年、東京生まれ。
39年、東京帝国大学法科を卒業、外務省に入省。
天津・奉天の総領事、昭和3年田中内閣の外務次官、駐伊・駐英大使などを歴任し、14年退官。
戦後、東久邇・幣原内閣の外相。21年自由党総裁となり第一次吉田内閣を組閣、日本国憲法制定、第二次農地改革にあたる。片山・芦田内閣のあと、23年から29年まで第二〜第五次の内閣を組閣。その間、サンフランシスコ講和会議に出席し、対日平和条約・日米安保条約に調印する。
42(1967)年没、国葬。

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2011年04月14日

『放射線はなぜこわい――生命科学の視点から』柳澤桂子/ 『人は放射線になぜ弱いか――少しの放射線は心配無用』近藤宗平

 東海村JCO臨界事故が起きたのは、1999年9月30日だった。10日ほどたって、取材のため現地に入った。ヨウ素131の半減期は8.04日。念のための措置であった。
 畑の大根はすべて引き抜かれ、無造作に捨てられていた。風評が飛び、土地の価格も値がつかなくなった。今回の福島第1原子力発電所の事故同様、マスコミによる煽りでパニックが起こったが、深刻さではJCO事故をはるかに超えている。
 水素爆発で建屋が吹っ飛び、骨組みだけが残った無残な姿は、広島の原爆ドームを思わせた。

 JCO事故の折、取材の参考のためにと数々の論文や資料に当たった。いずれも大量の放射線被曝は人間を死に至らしめるため、極めて危険であるという認識である。当然と言えば当然である。だが、少量の放射線に関しては意見が分かれている。
 少量の放射線でも危険であるという主張は、例えば柳澤桂子『放射線はなぜこわい――生命科学の視点から』(地湧社)がある。
 人間の体は細胞からできているが、この細胞は分子から、分子は原子からできている。原子の中心には原子核があり、陽子と中性子で構成されている。そして、その周りを電子がまわっている。
 放射線がひとつの原子に当たると、その原子から、電子が大きなエネルギーをもって飛び出し、行く先々で無数の分子にぶつかって、エネルギーを少しずつ分け与える。これによってぶつけられた分子は興奮状態になったり、電離原子(電子を失った原子)になったりする。放射線の影響とは、こうした電離原子による複雑な化学反応によって引き起こされる。
 少量の放射線を浴びて、表面上、何の変化も認められなくても、放射線はDNAを傷つけ、切断するなどして、突然変異を引き起こすという。その結果、細胞がガン化したり、奇形児が生まれたり、またDNAの傷が子孫に伝えられて蓄積する可能性があると述べている。

 一方、少量の放射線ならば大丈夫というのが、近藤宗平『人は放射線になぜ弱いか――少しの放射線は心配無用(第3版)』(講談社ブルーバックス)である。
 国際放射線防護委員会(ICRP)では、「直線しきい値なし仮説」を採用している。被曝による発ガンの危険率には「安全量」(その線量以下なら危険率がゼロ)はない、というものである。つまり線量の多寡を問わず、発ガンの危険性があるという考え方である。
 ところが、原爆放射線によるその後の人体への影響を調査した研究でも、チェルノブイリ原発事故後の周辺のベラルーシでの調査でも、少量の放射線による影響は認められなかったという。「発ガンの危険がある」ということを証明できなければ、通常「発ガンの危険はない」と考える。なぜなら科学は「ない」ということを証明できないのだから。
 誤解のないように言っておきたい。放射線は危険である。ただし、その線量如何である、ということだ。10Sv(シーベルト)〜100Svの被曝では全員が数日から2カ月の間に全員死亡するといわれている。ところが、10mSv(ミリシーベルト)以下ならもはや心配しても仕方がないレベルだし、さらに1mSv以下なら自然放射線による日常被曝の程度である。この量をどう判断するか、ということである。

 ただ今回の事故に関して、プルトニウムに関する政府の見解がまずかった。その見解をそのまま垂れ流したマスコミはもっとひどかった。
 α線は紙1枚も突き抜けることができない。つまり紙1枚で防げる。
 プルトニウムを飲み込んでも、排泄されて体の外へと出てしまうから大丈夫。
 酸化プルトニウムは質量が重いので、30km以上飛ぶことは考えにくい。

 上の2つは、動力炉・核燃料開発事業団によるPRビデオ「頼れる仲間プルト君――プルトニウム物語」のなかで“プルト君”も自信たっぷりに言っていた。

 呆れてものが言えない。
 プルトニウムはたった一か所にあるのではない。水蒸気爆発で周辺に飛散したはずだ。紙1枚で防げるのなら、全身を紙で覆うのか? しかもプルトニウム粒子は肉眼で確認できない。彼らは実験室の中で事故が起きているとでも考えているのだろうか。現場なんですけど。
 プルトニウムはα線を出し続ける。肺に沈着せずに、幸いにして消化器官に入ったとしても、排泄されるまでの間は被曝し続ける。勿論、飲み込んだ量によってダメージの深刻度は変わる。
 酸化プルトニウムは質量が重い。確かに比重は金と同程度の重さである。しかし、日本には毎年、黄砂が飛んできている事実を忘れたのであろうか? 粒径10μm(=0.01mm)の黄砂は比重が2。プルトニウムの比重は19.8だが、酸化プルトニウムの粒径は0.3μm。風に乗って飛ばないはずがないではないか。ましてやこれからは台風の発生する季節。早急に収束させないと、日本中にまんべんなく放射線物質が降り注ぐことになる。ただし、これも量の問題である。
 中学理科の仕事とエネルギーを思い出した。斜面から転がり落ちるボールが、下りきったところでぶつかった木片が数センチ動いた。斜面の高さと木片の移動距離に関する問題であるが、これには条件があった。空気抵抗や摩擦は無いものとする、というものだ。理論的には成り立つが、現実にはあり得ない。テレビの解説者の言い分には全くリアリティが感じられない。彼らにとっては、未だに空気抵抗や摩擦は無視していい存在であるかのような口ぶりである。

 JCO事故の取材で、ある論文を知った。当時のアメリカ核管理研究所(NCI)科学部長のエドウィン・S・ライマン博士の「日本の原子力発電所で重大事故が起きる可能性にMOX燃料の使用が与える影響」(1999年10月)である。慢心は危険だと主張するこの論文は、この福島第1原発で起こっている事故を見事に言い当てていた。
 MOX燃料は高速増殖炉で使うべきものであって、本来軽水炉で使用するものではないはずだった。それが各地の原発に持ち込まれている。このことが被害を甚大なものにしてしまったのだ。MOX燃料を使用する炉での事故は、通常の炉の事故よりもはるかに深刻な事態になるはずだが、これに対する国の原子力安全委員会の返答は、事故が大規模の被害を招くのは燃料が原発の外に放出された場合だけであるとしている。MOXのペレットは焼結されているため粉状になって発電所の外に運ばれることは実質的にあり得ない。したがって、プルトニウムの原発外への放出に至る事故の影響について評価する必要はない。これが彼らの間違った論理であった。だが現実はどうなったか?
 論文はまた、冷却材喪失事故や発電所停電のリスクについても触れている。まさに今の福島原発で起きていることだ。
 論文は以下のように締めくくっている。

 日本の規制担当者にとって、日本の原子力発電所が米国のものよりリスクが相当低いと考えるのはばかげている。したがって、日本は、軽水炉にMOX燃料を装荷し始めるというその計画を再検討しなければならない。米国の例にならって、重大な封じ込め機能喪失事故が――他の国におけると同じく――日本でも起こりうるという事実を受け入れ、その文脈においてMOX燃料の使用のリスクを評価すべきである。このような評価を厳密かつ正直に行えば、日本の当局は、MOX使用に伴うリスクの増大は、日本人にとって受け入れることのできない重荷であり、将来の日本の原子力産業の焦点は、通常の低濃縮ウランを使った既存の原子力発電所の安全な運転におくべきだ、との結論に至らざるを得ないだろう。
 
 当時、この論文の件で、科学技術庁や通産省の責任者に面会を求めたポール・レーベンソールNCI(核管理研究所)代表が、多忙を理由に断られたことを告白している。

 ところで、JCO事故の取材の折、参考にした資料に、原爆症による遺伝的な影響は認められなかったとする論文があった。この論文の筆頭著者の娘さんが、後に蛇崩の妻となるとはこのとき思ってもみなかった。



【今回紹介した本】
『放射線はなぜこわい――生命科学の視点から』(第3版)柳澤桂子
地湧社
1999年10月15日 2刷発行
¥650+税

『人は放射線になぜ弱いか――少しの放射線は心配無用(第3版)』近藤宗平
講談社ブルーバックス
1998年12月20日 第1刷発行
¥980+税

【著者資料】
柳澤桂子(やなぎさわ・けいこ)
1938年東京生まれ。
遺伝学者。

近藤宗平(こんどう・そうへい)
1922年福岡県生まれ。
大阪大学名誉教授。
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2010年11月02日

『死・墓・霊の信仰民俗史』新谷尚紀

 お骨をひろった。
 火葬場は暑く、変わり果てた姿はもうない。名残のお骨が横たわっていた。
 係員が慣れた様子で喉仏を指し、喪主に拾うよう促した。小さな骨壷にお骨をひろいあつめ、丁寧に入れる。とても入りきるものではないが、係員は責任をもって残りを処分するとのこと。結局は空き地に捨てるのだろう。
 すべてのお骨をひろって連れて帰りたかったが、それは出来なかった。

 新谷尚紀『死・墓・霊の信仰民俗史』(財団法人歴史民俗博物館振興会刊)を読んだ。
 日本は伝統的に土葬が一般的であったという。一部には火葬も執り行なわれたが、たいがいは身分の高い人に対してなされたようだ。
古くは大阪府堺市の陶器千塚古墳群のカマド塚から、人骨2体が発見されている。カマド塚とは、埋葬後に火をかけて遺骸を焼いた塚である。また、『古事記』を撰進した太安万侶の墓からも、墓誌、真珠4粒とともに、火葬骨が発掘された。
 万葉集にもこんなのがある。
  土形娘子(ひぢかたのをとめ)を泊瀬(はつせの)山に火葬(やきはふ)りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首

   陰口(こもりく)の泊瀬の山の山の際(ま)にいさよふ雲は妹(いも)にかもあらむ

 また、
  溺れ死(みまか)りし出雲娘子(いづものをとめ)を吉野に火葬りし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌二首
ともある。
 あるいは、

   秋津野(あきづの)を人の懸(か)くれば朝蒔(ま)きし君が思ほえて嘆(なげ)きは止まず

   秋津野に朝ゐる雲の失(う)せゆけば昨日(きのふ)も今日(けふ)も亡(な)き人思ほゆ

とあり、火葬して灰をまく習慣もあったものとみえる。いわば散骨である。

 土葬ならば遺骸をそのまま土に埋めるため問題は生じない。だが火葬となると、その遺骨を散骨するか、納骨するかという問題が発生する。同時に墓、石塔の発生も生じてくる。

 鎌倉時代、浄土真宗の開祖・親鸞は遺言としてこう云い残した。
 「某(それがし)、閉眼セバ、加茂川ニイレテ魚ニアタフベシ」
 ところが、実際には洛東の鳥辺野延仁寺で火葬され、大谷に納骨されたという。この故事に倣ってか浄土真宗の門徒のなかには、火葬後に遺骨をわずかに残し、後は捨ててしまうという風習が残っていたという。遺骨は寺に納骨するという。
 すべてのお骨を連れて帰りたかったことによる困惑も、この話を聞いて少し晴れた。係員の言う“処分”も、言い換えると“散骨”だったのだ解釈も可能である。
 こう納得したい。

 小さいころ、寺町で育った蛇崩は、墓所を遊び場にしていた。当時、「忠霊塔」と呼んでいた石造りのモニュメントはお彼岸に鉄格子の扉が開かれた。暗い通路の両側にはおびただしい頭蓋骨が整然と並べられていた。暗がりのわりには、骸骨はうっすらと白く浮かび上がっていた。肝試しの場所だったが、怖くて二度と入らなかった。
 あれは火葬骨ではない。それにしては綺麗すぎた。


【今回紹介した本】
『死・墓・霊の信仰民俗史』新谷尚紀
財団法人歴史民俗博物館振興会刊
1997年11月13日 発行
¥700(税込み)

【著者資料】(当時)
新谷尚紀(しんたに・たかのり)
1948年、広島県生まれ。
早稲田大学大学院博士課程修了。
国立歴史民俗博物館教授
posted by 蛇崩緑堂 at 09:35| 東京 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月31日

『日本を決定した百年 附・思出す侭』吉田茂

 しかし日本はどうなってしまったのだろう。政権はコロコロと代わり、重要な法案も通らず、時の政府はすべて有言不実行だった。そしてリーダーシップが皆無であった人が責任を取って辞任したと思ったら、またぞろ表舞台にしゃしゃり出て、公然と力を発揮しようとしている。彼は、総理経験者が隠然と力を振るうことは好ましくない、そう言ったはずだった。
 お蔭で日本は大きく揺れ、その余波をもろに被ったのは、生活者である。停滞が長引くほど、毒が体中に行き渡る。じきに取り返しがつかなくなる。

「国会の運営などにおいても利権、政権によって政党が出所進退を二、三にし曖昧にし、主義、政策によらずして政党が動き政権を目指して離合集散すれば、自由国家からの尊敬は期待できないのみならず、甚しき軽蔑の念を以て迎えられるだろう。……中略……もし政策によらずしてただ政権のためのみの合同を目指すのだったら、わが国の政治はむしろ自由国家の軽蔑を買うこととなろう。」

「民主政治は自ら持すること高く(ディグニティ)、反対党に対して寛大(マグナニミティ)をもってのぞみ、譲るべきは譲り、責むべきは責め、いわゆるその争や君子なりであることが、その理想でなければならぬ。逆に自己を責むることに寛大で、他党に対しては苛酷なるにおいては、民主政治の円満なる運用は期し難い。」

「要するに政治の運用は人にある。政治を統率する政治家が常に国家の重きに任じ公平に処理することが政治の要諦であると考える。指導者が私心をさしはさみ、政権にのみ執着し、強固な意思方針なく朝夕政策動揺して国民の信頼感を失わしめつつある如き場合は円満なる民主政治の運用は期し難いのである。」

 吉田茂『日本を決定した百年 附・思出す侭』(中公文庫)にこうある。
 その他、外交、防衛、経済、財政などに関する記述は、驚くほど現在の日本にも通用するのみならず、指針を与えるものとなっている。社会的・政治的な背景の異同もさることながら、何やらこの辺に日本人の変わらなさ(どうしようもなさ)があるのかも知れない。
上の言葉は、まさに今の状況を批判しているようだ。

 「日本を決定した百年」は、エンサイクロペディア・ブリタニカの百科事典付録の補遺年鑑の巻頭論文として執筆されたもの。それを日本経済新聞社から刊行するにあたり、編集部が付録として「外国人が見た近代日本」を加えた。文庫化に際しては、さらに『時事新報』連載の「思出す侭」を合わせた。
 吉田茂の肉声が聞こえる。


【今回紹介した本】
『日本を決定した百年 附・思出す侭』吉田茂
中公文庫
1999年12月18日 初版発行
2007年7月30日 再販発行
¥743+税

【著者資料】
吉田茂(よしだ・しげる)
明治11(1878)年、東京生まれ。
39年、東京帝国大学法科を卒業、外務省に入省。
天津・奉天の総領事、昭和3年田中内閣の外務次官、駐伊・駐英大使などを歴任し、14年退官。
戦後、東久邇・幣原内閣の外相。21年自由党総裁となり第一次吉田内閣を組閣、日本国憲法制定、第二次農地改革にあたる。片山・芦田内閣のあと、23年から29年まで第二〜第五次の内閣を組閣。その間、サンフランシスコ講和会議に出席し、対日平和条約・日米安保条約に調印する。
42(1967)年没、国葬。
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2010年06月25日

『A Peanuts Book Special featuring SNOOPY――ルーシーの心の相談室』 チャールズ M. シュルツ

 雑誌編集者をしていた頃、アメリカ在住の日本人精神科医と電話で打ち合わせをしていたときに、こんなエピソードを聞いた。
 当地では、日中の診療を終えた精神科医が、帰宅途中に別のカウンセラーを受診することがわりと多い、と言うのである。それほどまでにストレスフルな社会なのか、みんな病んでいるんだと思ったものである。だが、本当の理由はそうではなかった。アメリカでは医師に限らず、金銭に多少の余裕を持った人々は、頻繁にカウンセリングを受けるのが常であるという。心理的な問題に関してのアドバイスを得るために、専門家の意見を参考にするという、実に合理的なスタイルなのであった。

 アメリカでは他人に対して積極的に介入したり、気を遣ったりはしないそうだ。何よりも自分を守ることを最優先にする。自分の身は自分で守り、成功は自らが勝ち取るものとされる。なりたい自分になる、努力とはそのためのものである。徹底した自己責任、自己実現の社会だという。もっとも金銭的な余裕あってのこと。戦争と不況の続く現在は、ちょっと事情が変わっているかも知れない。
  たが、こうした社会では、他人からの同情などはそもそも得られにくい。自分の弱みや心中の思いを他人に曝すことは命取りともなる。心中の思いは、専門家であるカウンセラーにのみ打ち明けるのだ。弱者は弾き出される社会である。カウンセリングは、社会から弾き出されないための自己管理、いわばメンテナンスであるというのが彼らの常識である。

 チャールズ M. シュルツ『Peanuts Book Special featuring SNOOPY――ルーシーの心の相談室』(谷川俊太郎・訳、角川書店)は、Peanuts Seriesの中のテーマ別に構成されたもののひとつ。ルーシーが5セントで「心の相談室」を開き、ここにチャーリー・ブラウンをはじめ仲間たちが相談に来るというわけである。相談室が初めて登場したのは、1959年である。

 アメリカでは、それまでのクライエント(来談者)にアドバイスすることが主眼だったカウンセリングは、1950年代になるとクライエントの成長する力を援助する風潮に変わっていった。指示的な心理療法から非指示的な心理療法への転換である。
 また、家族研究においても、両親の子どもへ与える直接的な影響の研究から、家族内の複雑な相互関係を全体としてとらえようとする動きが始まる。N.W.Ackermanの『The Psychodynamics of Family Life』(Basic Books, New York)が出版されたのもこの前年、1958年であった(※)。
 ルーシーの「心の相談室」はこうした時代に始まっている。
 チャーリー・ブラウンの絶望的な悩みに、的外れなアドバイスをしてしまうこともしょっちゅうだが、ルーシーにはどこか憎めないところがある。漫画だからこそ、微笑ましくも見える。そんな中でも、精神分析的に重要なことも扱っている。「転移」や「夢(無意識)」についての洞察である。詳しく紹介しても面白みが減るだけなので敢えて触れないが、ときとして的を射たシーンも登場するのである。
 ラフな英語の勉強にもなるのも嬉しい。
 そうそう、思い出した。ヘンデルの「メサイア」(すべて英語による歌詞)で、メシア(=キリスト)のことを、“wonderful counselor”と唄っていた。『旧約聖書』「イザヤ書」9章5節にその記述がある。


※翻訳は、小此木啓吾、石原潔・訳で岩崎学術出版社から『家族生活の精神力学』[上・家族関係の理論と診断](’65)/[下・家族関係の病理と治療](’70)


【今回紹介した本】
『A Peanuts Book Special featuring SNOOPY――ルーシーの心の相談室』
チャールズ M. シュルツ 谷川俊太郎・訳
角川書店
平成12年2月25日 初版発
¥952(税別)

【著者資料】
チャールズ・モンロー・シュルツ
1922年、ミネソタ州生まれ。
新聞連載などで「ピーナッツ」を50年にわたって書き続ける。
2000年、永眠。
posted by 蛇崩緑堂 at 13:28| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月25日

『笑いと異装』飯島吉晴

 名古屋市の熱田神宮にある文化殿には、多くの宝物が展示されている。木造の舞楽面では、「納曽利(なそり)」1面(平安時代)、「抜頭(ばとう)」1面(平安時代)、「陵王」1面(鎌倉時代)、これらはいずれも重要文化財である。また、「桐鳳凰蒔絵鏡箱」1合(室町時代)、これも重要文化財である。
 残念ながら熱田神宮を訪れる機会はこれまでなかったが、「桐鳳凰蒔絵鏡箱」はかつて東京の展覧会にて鑑賞することが出来た。絢爛豪華な蒔絵作品に息を呑んだ記憶がある。是非、舞楽面ともども、彼の地を訪れこの目で見てみたいものである。

 毎年5月、熱田神宮では「酔笑人神事(えよおうどしんじ)」というお祭りがとり行なわれる。境内の灯りをすべて消した闇の中で「オッホオッホ」と高笑いする儀式である。闇夜の笑いは恐怖である。
 熱田神宮といえば、三種の神器のひとつ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」の鎮座をその始まりとして有名である。日本武尊(やまとたけるのみこと)が神剣を留め置いたまま、いまの三重県で死去したことから、妻の宮簀媛命(みやすひめのみこと)が神剣を熱田の地にお祀りされたのが始まりである。
 ところがこの神剣が盗難に遭い、一時、宮中で保管されていた。ようやく神剣が熱田に戻ることになり、それを喜んだのが「酔笑人神事」であるといわれている。しかし、よほど嬉しかったのであろう。闇夜の中でも高笑いとは。

 だが蛇崩にはちょっと気にかかることがある。この儀式は単に嬉しさのみを表す神事なのだろうかということだ。闇夜の中の笑いは恐怖でもあるとさきに書いた。むしろ、闇夜という恐怖に笑いをとどろかせ、未知(異界)という恐怖を笑いによって笑い飛ばす。未知の恐怖に笑いという形式を与えることで可知のものとし、私たちの知の体系に組み込もうとしているのではないか。

 飯島吉晴『笑いと異装』(海鳴社)を読んでいて、そんなヒントを戴いたような気がする。
「猿地蔵」として知られる物語がある。良いお爺さんはお地蔵さんと間違われ宝物をもらうのだが、悪いお爺さんは川を渡るときに笑ってしまい、人間であることが猿にバレてひどい目に遭うというお話であった。だいぶ端折ってしまったが、要は異界(死の国といっても良いだろう)に入るときは笑いは禁止され、逆に生への参入(誕生)は笑いによってもたらされることが窺われる。

 「酔笑人神事」も、神剣の返還、つまり神剣の再びのこの地での誕生を、笑いによって招来するという意味が込められていたのではなかったろうか。もちろん、嬉しさも込めて。感情としての笑いと、儀式化された笑いが併存しているのが、この儀式なのだと蛇崩は考えるのである。

 笑いには未知を可知にする力があると同時に、その反面、秩序を転換させ、混沌を引き起こす作用もある。笑いはいわば、この世と異界との媒介でもあるのだ。


【今回紹介した本】
『笑いと異装』(MONAD BOOKS 43)飯島吉晴
海鳴社
1985年発行
¥500(本体)

【著者資料】(当時)
飯島吉晴(いいじま・よしはる)
筑波大学歴史人類学系・民俗学
posted by 蛇崩緑堂 at 10:19| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月14日

『文科系のための暦読本』上田雄

 旧暦で日々を感じてみると、自然というものをよく見るようになる。
 節句や季節の行事が、年ごとにずれはあるものの、時節の雰囲気が味わえる。
 2月14日(2010年)は、聖バレンタインの日であるが、旧暦の1月1日でもある。そう、正月なのである。ここで旧暦と言っているのは太陰太陽暦、つまり月の満ち欠けを基準に一年を決め、太陽の動きに合わせて調整する暦である。太陰暦と太陽暦の調和暦である。
太陽暦(グレゴリオ暦)では1年は365日、4年に一度を閏年として366日とする。対する旧暦は、月の満ち欠けが29.53日のため、大(30日)・小(29日)の月を交互に並べれば1年が約354日となる。このままでは実際の季節から11日が短くなり、3年もたてば1カ月以上もずれてしまう。月の満ち欠けで「日」を知ることができても、農作業などには暦が役に立たない。そこで実際の季節に合わせるために33〜4カ月に一度の割合で、閏月を当てて調整するのである。
毎年の月の大小が変わるし、閏月も入れなくてはならない。暦と実際の季節にずれが生じるため、太陽の位置を示す二十四節季なども併用する。太陽暦に慣れている私たちにとっては不合理な暦なのだが、これがなかなか面白い。
2010年の桃の節句(旧暦3月3日)は4月16日(昨年は3月29日)、端午の節句(旧暦5月5日)は6月16日(昨年は5月28日)となる。桃の花は、種類によって違うが、3月中旬から咲きだし4月中旬までが見頃である。仲秋の名月(旧暦8月15日)は9月22日(昨年は10月3日[閏5月が入ったためずれが生じる])となる。
蛇崩などは、年中行事などの味わい方や、自然への眼差しにも以前とは違った微妙な変化を感じるのである。
あるいは歴史的な事柄にも興味がわく。
忠臣蔵の討ち入りは元禄15年12月14日。現行の太陽暦では1月30日、さぞ寒かったであろう。あるいは、「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」と詠んでいた西行は、文治6年2月16日に亡くなっている。太陽暦では3月30日、桜の花を愛でたかも知れない。実際の出来事への認識も変わるというものだ。
上田雄『文科系のための暦読本』(彩流社)は暦に関する読み物。暦に関するあれこれが、読みやすく紹介されている。特に蛇崩れにとっては、西洋歴の話題が興味深かった。October(oct=8)が、なぜ10月なのか? 長らくの疑問が氷解した。理由は本書に書かれている。ぜひ読んで戴きたい。蛇崩の大雑把な説明も吹き飛んでしまう。

今年の七草の節句(旧暦正月7日)は、2月20日。草草も育っていることであろう。


【今回紹介した本】
『文科系のための暦読本』上田雄
彩流社
2009年2月20日 初版第1刷
¥1,600+税

【著者資料】
上田雄(うえだ・たけし)
1931年、神戸市生まれ。
神戸大学文理学部文科(国史)卒業。
著書に『渤海国の謎』(講談社現代新書)などがある。

監修者=石原幸男(いしはら・ゆきお)
1951年、神戸市生まれ。
高知大学理学専攻科修了。
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2010年01月05日

『狛犬かがみ』たくきよしみつ

 一風変わったクリスマスだった。
 現地のスタッフが海辺でサンタクロースの格好をしている。周りの人々は、蛇崩も含め、クリスマス用に仕立てられた特製の布を腰に巻きつけて、その日を祝った。日本人は余り見かけなかった。多くはヨーロッパからのお客さんたちだった。フランス語を話す人が多かった。
 キリスト教徒ではない私たちは、夕食後、早々にコテージに引き上げた。日中の泳ぎ疲れのためである。むろん彼らは夜遅くまで踊り、杯を重ねていた。DJの選曲するのはユーロ・ビートだった。
 赤道にほど近いこの国はムスリムの国だ。首都の隣の島にある空港から、直接、各リゾートにボートが出ている。リゾートは島をまるごと所有しているため、企業のコンセプトも多彩、もちろんそこではアルコールもOKである。厳密な戒律もない。
 今回も素潜り三昧だった。サンゴ礁に囲まれた島の半周を泳ぎながら潜りながら、1時間は優にかかる。当然ながら途中に休憩所などありはしない。潮の流れをうまく使って、力を温存しながら、揺蕩うのである。午前1回、午後1回。最終日には遂に島を休むことなく1周していた。この島を何周泳いだのだろう。ねむりぶか、海ガメ、ロウニンアジ、テングハギ、固有種のカクレクマノミなどなど、この地域ではお馴染みの動物たちに今回もお目にかかることができた。エル・ニーニョや度重なる暴風のため、サンゴに甚大な被害が出ていた。微力ながらサンゴの植え付けのお手伝いもさせて戴いた。
 この国に来ると、地球の悲鳴が一層大きく聞こえる。

 西側の環礁には仏教遺跡も点在するという。かつては仏教が人々に信仰されていたのだろう。一度訪れてみたいものだ。
 不思議とこの国に来るとき、携える本は日本の歴史に関するものが多い。どこまでも広がるインド洋を眺めながら、古の日本を考える。今回は日本に仏教が伝来した頃をテーマにしたものを読んでいた。それまでの八百万の神々への信仰と国家経営に対して、仏教が果たした役割はこれらを立体的に仕上げたこと。スケールが大きくなり、何よりも理論的支柱をもたらしたということだ。

 ところで、日本のような端っこにある地域には、様々な文物が伝来し、習俗が吹きだまる。ここでは以前からの土着のものに新たな移入が加わり、オリジナルとはかけ離れた亜種が発生する。仏教もそうだし、文字・言語もそう、習慣もそうだろう。
 その中に「狛犬」も存在する。古くからエジプトのスフィンクスなど百獣の王である獅子をモチーフにしたものが多く存在する。時の権力者にとっては、最強の獅子こそ自らの守護神にはうってつけと考えたのであろう。その獅子が極東の端っこの島に伝わると、次第に変貌を遂げる。当初は宮中の守護獣だった狛犬は、神社を守る守護獣として社殿の奥でひっそりと守っていた。
 平安時代前期の『類聚雑要抄』(るいじゅうぞうようしょう)に
 「左獅子 於色黄 口開 右胡麻犬 於色白 不開口在角」とある。
 向かって右は阿像の獅子、左は吽像で角のある犬が、狛犬の古い姿である。「阿吽」は日本独自の姿である。中国の獅子像には見られない。
これがやがて一般にも伝わってゆく。とはいえ本物の狛犬を観た者はいない。神社の奥深くに潜んでいるからだ。そこで想像の狛犬が作られる。参道に鎮座する狛犬はこうして登場することになる。地方の石工の多彩なイメージが各地で咲き誇る。これが江戸時代になると芸術の域にまで達し、明治・大正・昭和と多彩な狛犬たちが神々をお守りすることになる。
 多数の写真で、勇猛で時に愛らしい狛犬たちを紹介したのが、たくきよしみつ『狛犬かがみ』(バナナブックス)である。狛犬好きの蛇崩にはたまらない一冊である。狛犬に対する著者の愛情が溢れだしている。しかも英文訳が併記されており、世界へ狛犬文化を発信しようという野望も見える。意欲的な作品である。そう、本ではあるが、敢えて作品と呼びたい。

 このお陰で神社巡りも一段と楽しくなった。


【今回紹介した本】
『狛犬かがみ』たくきよしみつ(文・写真)
バナナブックス
2006年9月15日 発行
¥1700(税込み)

【著者資料】
たくきよしみつ
作曲家、小説家、狛犬研究家。
『マリアの父親』で第4回小説すばる新人賞受賞。
posted by 蛇崩緑堂 at 10:49| 東京 🌁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月14日

『日本人の知らない日本語』蛇蔵&海野凪子

 学生時代、プラトンの研究者である西洋古典学の教授が、照れくさそうに私たち学生に話してくれたことがあった。彼女は念願かなって、プラトンの故郷であるギリシアに旅したときの出来事である。
 当地の人々に話しかけてみるのだが、みんな怪訝な顔をして、彼女のもとから足早に去っていったという。ギリシア語には自信のあった教授にしてみれば、いたく落ち込んだそうである。あるギリシア人の紳士に出会った時のこと、彼が丁寧に指摘してくれた。
 「あなたのギリシア語は、もはや古典語なので、今のギリシア人には通じませんよ」
 プラトンの研究者は古代ギリシア語を学んでいたため、現代人には通用しなかったのである。さしずめ、『源氏物語』の外国人研究者が、日本の古語を使って私たちに話してきたらどうでしょう? しかも流暢に。恐らく面喰って、何事もなかったようにその場を立ち去ることでしょう。
 教授は決まりが悪そうに、しかしニコニコしながらこのエピソードを語ってくれた。

 蛇蔵&海野凪子著の『日本人の知らない日本語』(メディアファクトリー)には、そんな異文化の話が盛りだくさん。海外から日本語を勉強しに来た人たちが繰り広げる爆笑のエピソードばかりだ。一所懸命に学んでいるから、本人たちにとっては大真面目なのだが。
 お国に帰ればシャトーに住む本物の上品なフランス人マダムは、任侠映画マニアのためか、「おひかえなすって! 私マリーと申します」と真顔で自己紹介。「私のこと姐さんと呼んで下さい」と言えば、他の外国人生徒に「てめぇ、シカトすんな」(ねぇ、聞いてる?程度の気持ちで)とも言う始末。普通の日本語とヤクザ言葉の使い分けなんて、そもそも無理というものなのでしょう。ここにスウェーデンから来た黒澤映画マニアの若い女性が、マリーさんの入学を聞きつけて意気投合。武士言葉をヤクザ言葉の織りなす、恐ろしい日本語が展開されるのである。

 言葉を学ぶということは、その国の文化を学ぶということでもある。この本を読んでいて、なるほどと思うこともしばしばだ。
返された答案用紙を愕然として眺めていた生徒、そこには“○”ばかり。正解に“✔”をつける国の方が多いとのこと。確かに機内での入国票には、チェックを入れることになっている。あるいはゲーム機のコントローラ。日本では「○」を押すと「決定」、「×」を押すと「キャンセル」を意味するが、アメリカ版は逆だという。まさに、ところ変われば、といったところである。

 最後に、凪子先生は海外の日本語教科書を手にして驚いたそうである。
  「素敵なお召物ですね」
  「いえ、こんなのはぼろでございます」


【今回紹介した本】
『日本人の知らない日本語』蛇蔵&海野凪子
メディアファクトリー
2009年2月20日 初版第1刷発行
2009年7月17日 第10刷発行
¥880(税別)

【著者資料】うみの・なぎこ(原案)
日本語教師、日本語教師養成講座講師。

へびぞう(構成・漫画)
イラストレーター兼コピーライター。
posted by 蛇崩緑堂 at 12:00| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月03日

『鏑木C方文集』鏑木清方

 この夏は資料を読み込む毎日だった。不便な土地にあって、遠路、図書館へも幾たびか足を運び、少ない資料から事実を確認する。資料によっては同じ事件を扱っていても、その日付が異なっていたりと、いわゆる“ウラ”を取らなければならない。おかげで結構な時間を費やしてしまった。
 こうして構成した資料をもとに、秋は執筆にあたった。連日の書きものは、連載を思わせる。毎日の連載はかなりきついものだと悟った。蛇崩には大変な作業である。共著のこの本は、幕末から明治において、日本が闘争を通して如何にして近代国家になっていったか、その戦いを改めて見ていこうというものである。
 蛇崩の担当は明治期である。次第に「国民」と「国家」が意識され、「近代」を獲得していく。むしろ、否応なく「近代」に呑み込まれていったのが明治という時代だったというべきかも知れない。国内の暴動鎮圧と他国(朝鮮)への侵略。こられは表裏一体のものだったと改めて感じた。一歴史好きがこのような本を書くことができて光栄であるし、何よりも良い勉強をさせて戴いたと思っている。そんな専門家でもない者が執筆を通して感じたことは、日本は何と馬鹿げたことをしでかしてしまったのかということだった。泉谷しげる氏ではないけれど、まさに“戦を仕掛けるのはうまく、戦が国の栄となる”(「国旗はためく下に」)、その下地が明治に形作られていったということである。

 先日、東京のサントリー美術館で「清方ノスタルジア〜名品でたどる鏑木清方の美の世界」展を観てきた。1990年の横浜美術館、’99年の東京国立近代美術館以来である。’90年の展覧会では、当時、美術雑誌の編集部に在籍していた蛇崩が清方の特集を組んだ。この時も資料に当たり、掲載作品の選定に苦心した。なにしろ名作揃いであったからだ。
 その資料が清方自らの手になる『鏑木C方文集』(白鳳社)である。名文筆家としても知られる彼の随筆は、日本画作品ともども品格がある。絵の場合、画品というが、彼の文章も画品と言っていい空気感がある。美しい文章である。
 展覧会で「深沙大王(じんじゃだいおう)」(明治37年)、「嫁ぐ人」(明治40年)が異彩を放っていた。「深沙大王」は泉鏡花の小説を脚本化したものの絵看板として描かれた作品である。だが、異彩は絵そのものではない。表装があり得ないのである。柿色に薄桃色が混ざった色。「嫁ぐ人」は画題の華やかさを重く消し去った濃いえんじ色である。この2作品が並べられているのである。否が応でも目立つ。自作品はおろか、隣の作品をも打ち消しあっているかの如くである。唖然としてしまった。いい作品も表装如何では台無しになってしまう。

 明治37年といえば日露戦争が起こった年である。9月には与謝野晶子「君死にたまふこと勿れ」が、また、「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。」の揚言で始まる島崎藤村の『藤村詩集』もこの月であった。日露戦争による文学的な反映が次第に見えてくる。
絵画の場合はそうした反映は目立たないようだ。「深沙大王」は、演目の変更で上演されなかったため、10月のグループ展に出品したものである。モダンな作である。この頃、日本軍は満州の遼陽を占領するも、ロシア軍の大規模な逆襲に手を焼いていた時期である。

 とはいえ、清方の、市井のおだやかな暮らしへの眼差しが蛇崩は好きである。
 静謐な展観であった。


【今回紹介した本】
『鏑木C方文集』(全8巻)鏑木清方
白鳳社
第1刷発行 昭和54年2月25日〜昭和55年9月20日
¥3,800〜4,900(当時)

【著者資料】
かぶらき・きよかた
日本画家。明治11(1878)年〜昭和47(1972)年。
昭和29年、文化勲章を受章。
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2009年09月01日

『ノアノア タヒチ紀行』ポール・ゴーガン

 遺作ともいうべき彼の大作を初めて観た。
 「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」
 ポール・ゴーギャン晩年の作である。
 縦139.1cm×横374.6cmの大画面は、蒼い色調に支配され、ところどころに配された裸の女性たちの黄褐色が印象的だ。49歳から50歳の頃にかけて制作されたこの大作は、彼の最愛の娘の突然の死の知らせを受け取り、彼自身、眼病、足の傷の痛み、梅毒、心臓発作と満身創痍のなか、自殺を決意した時期に描かれたものだった。19歳の娘の死は、相当な衝撃だっただろう。
 一命を取り留めた彼は、この後、タヒチからマルキーズ諸島に移り住み、間もなくこの地で没する。享年54歳。

 ゴーギャンがタヒチへ向かったのは1891年(43歳)、ゴッホの死の翌年である。ある日ふと見かけたタヒチ島の案内記に、たちまち魅了されたという。約2年間の滞在の様子を描いたのが『ノアノア』ポール・ゴーガン著、岩波文庫)である。
 フランスに帰国してから、タヒチで描きためた作品を売ろうと個展を開いたものの、売上は芳しくなく、やむなく滞在記を雑誌などに投稿しようと書いた。
 島での生活や風俗はもちろんだが、興味深いのは現地住民の信仰やそれに纏わる天地創造や天空の神々の話、いわば神話である。波羅門教の影響もみられるようで、ゴーギャンも指摘しているところである。
 こうした土着的な信仰は、しかしながらフランスの植民地政策によってキリスト教が布教され、生活も制度も慣習もいっぺんに欧化されてしまった。“南の楽園”を夢見たゴーギャンの目には、タヒチはもはや楽園ではなかったようだ。よりプリミティヴな生活を求めて島の反対側に移り住む。草ぶき屋根と竹でできた小さな小屋を借りて住まうようになった彼にとって、心安らぐ幸せな時間だったかも知れない。

 帰国後のゴーギャンは、文明の退廃から逃れるために再びタヒチへ渡る。
 欧化ではなく土着性へ、一神教ではなく古来よりの神々の信仰へ、論理ではなく研ぎ澄まされた感覚へ――それはまさしくタヒチという自然の中にあった。
 「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」
 この問いかけこそ、「存在」と「時間」を結びつける「自然」への回帰を意味するものであった。


【今回紹介した本】
『ノアノア タヒチ紀行』ポール・ゴーガン/前川堅市・訳
岩波文庫
昭和7年3月25日 第1刷発行
昭和35年10月25日 第16刷改版発行
昭和45年9月30日 第27刷発行
¥ ★ひとつ(当時)

【著者資料】ポール・ゴーギャン
画家。1848年〜1903年。
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2009年07月30日

『茶の本』岡倉覚三

 中国禅の大家・趙州(じょうしゅう)和尚にこんなエピソードが残されている。

 ある日、新参の僧二人が趙州和尚のもとを訪ねると、和尚は、
 「前にもここへ来たことがおありか」と尋ねた。
 「ございません」と一人の僧が言うと、
 「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。[=きっさこ]
 もう一人の僧にも「前にもここへ来たことがおありか」と尋ねると、
 「来たことがございます」。「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。
 この様子を見ていた院主が和尚に、「かつて来た者にも、来ない者にも喫茶去とおっしゃるが、何故ですか」。
和尚は質問には答えずに、「院主さん」と呼んだ。院主は、すかさず「はい」と返事をすると、和尚は「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。

 茶道につながる茶の湯とは、もともと禅における「茶礼(されい)」からきているという。宋の時代、いわゆる南方禅宗が「茶」の儀式を確立したそうだ。後に元によって宋代の文化が破壊されてしまう。ところが、宋の茶は栄西禅師の帰国とともに日本に伝わっていた。彼が植え付けたうちのひとつが、京都の宇治である。本国では廃れてしまった習慣が、日本で生き延びたというわけだ。この茶の儀式を将軍足利義正が奨励したことで茶の湯は大いに花開く。
 日本の文化は「茶の湯」なしには語れず、また「茶の湯」がなかったらこれほど豊穣なものにはならなかっただろう。

 この「茶」という東洋精神の真髄を西洋世界に伝えたのが『茶の本』(岩波文庫)である。作者は、フェノロサに感化を深く受けた美術評論家・岡倉天心。すでに美術雑誌『國華』を創刊し(2008年に創刊120周年を迎えた)、東京美術学校の校長職を辞し、日本美術院を創立していた。ボストン美術館の東洋部顧問として1年のうち半分は彼の地に滞在していた。『茶の本』はその頃の作である。
 原題は『THE BOOK OF TEA』(1902年)。ニューヨークのフォックス・ダフィールド社から刊行されている。フランス語訳もドイツ語訳もその後に出され、天心の名は世界的に知られていたが、日本語訳は23年も遅れて雑誌に掲載されたという。
 「茶」をめぐっての珠玉の「エッセ」である。

 千利休は、「茶の湯とは、ただ湯をわかして茶をたてて飲むばかりなる本(もと)を知るべし」と言っている。この「本(もと)」こそ、天心が伝えたかったものかも知れない。

 岡倉天心といえば、もうひとつ。
 彼の作である日本美術院院歌の歌詞がいい。
 「谷中鶯初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
  奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」

 覚悟が在る。思想が在る。



【今回紹介した本】
『茶の本』岡倉覚三/村岡博・訳
岩波文庫
1929年3月10日 第1刷発行
1981年9月10日 第61刷発行
¥100(当時)

【著者資料】
おかくら・かくぞう
美術評論家。1862年〜1913年。東京美術学校校長、日本美術院創立、ボストン美術館顧問。東洋美術の紹介に努めた。
posted by 蛇崩緑堂 at 22:08| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月21日

『今日からすぐに実践できる 精神科医の栄養療法――メンタルケアのための栄養レッスン』佐藤安紀子

 先頃亡くなられたカナダの医師、エイブラム・ホッファー博士(1917−2009)の名を知る人はあまりいないだろう。「分子整合(精神)医学」のパイオニアとして、その世界では非常に著名な医学者である。
 「分子整合(精神)医学」とは、「栄養」が分子レベルで脳(生体機能)にどのように作用しているかを研究する学問であり、その理論と知見をもとに「栄養療法」を実践している。驚いたことに、重い精神疾患に対しても、高い効果を発揮しているというのである。
 “驚いたことに”と云ったのは、「精神疾患」と「栄養」がどんなふうに結びつくのかがイメージできなかったからである。抗精神薬は分子レベルで脳に作用するため精神に何らかの効果をもたらす。「栄養」も当然ながら、分子レベルで脳に何らかの効果をもたらすはずだ。ホッファー博士らはそれまでの臨床観察から、ビタミンB3(ナイアシン)を統合失調症患者に処方しはじめ、効果の有用性を明らかにした。
 栄養は心の病にも影響するというのだ。しかも薬物療法にくらべ、より自然でゆるやかに作用するのである。

 こうした観点に立って、実際に精神科臨床に栄養療法を取り入れている医師の手になる入門編とも云うべき本が出版された。佐藤安紀子『精神科医の栄養療法』(BABジャパン)である。
 精神疾患の患者のなかには、栄養障害が進行している人が結構いるようで、そういう人たちは必ず血糖の調節障害が伴っているという。したがって先ずは血糖の調節を正常範囲に戻し、そこから栄養療法を開始し、徐々に薬の量を減らしていき、症状を軽くあるいは病状の改善をはかっている。本書では多くの治療ケースも紹介されている。
 ここでの栄養療法は、砂糖を極力控えること、そして良質なタンパク質を栄養の基礎としてとらえることが胆である。この点に関しての理由は、本書でやさしく説明されている。

 分子整合医学というと難解なイメージが付きまとうが、本書はさにあらず。かなり分かりやすく解説している。もちろん、対象は精神疾患に限らない。誰もが実践でき、持続可能なより良い生活習慣のために開かれている。外食やコンビニ食の場合にも使える栄養療法的“食のアドバイス”もあり、なおかつ今すぐ実践できる栄養療法の「基本&簡単レシピ」も紹介されている(じつは蛇崩もレシピ製作に関わっている)。

 現代人は「糖質依存症」だと著者は言う。これまでの間違った食事療法を続けていては、負のスパイラルに落ち込み、より糖質への依存度が増してしまうだろう。あるいは過度にバランスを欠いた食生活になってしまうだろう。
 そこから抜け出す方法がここにあった。



【今回紹介した本】
『今日からすぐに実践できる 精神科医の栄養療法――メンタルケアのための栄養レッスン』佐藤安紀子 監修・溝口徹
BABジャパン
2009年5月20日 初版第1刷発行
¥1,400+税

【著者資料】
さとう・あきこ
精神科医。1992年、防衛医科大学校卒業。防衛医大病院、自衛隊中央病院精神科にて勤務後、「ストレス緩和ルーム」主宰を経て、新宿溝口クリニックにて診療を行なっている。
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2009年05月31日

『蜀山残雨――大田南畝と江戸文明』野口武彦

 世の中は 色と酒とが 敵なり どふぞ敵に めぐりあいたい

 南畝大田直次郎というより「蜀山人」と言った方が通りはいいかも知れない。とはいえ、上の狂歌は「四方赤良」を名乗っていた時代の作である。酒好きの南畝にあって、いつも周囲は赤ら顔ばかり、もちろん名乗った自分もご多分にもれず。それでこうした狂名をつけたのであろう。

 寛延2年(1749)に生まれ、文政6年(1823)に75歳の生涯を終えた南畝。「四方赤良」はそれまで親しんできた漢詩を崩したことで一躍有名になり、狂歌にも活動を拡げ、押しも押されもせぬ時代の寵児となった時期の名である。明和・安永・天明期、いわゆる田沼時代であった。
 その後、寛政の改革によって風俗矯正・出版統制が厳しく行なわれ、南畝のまわりにも司直の手が伸びていた。酒上不埒(さけのうえの・ふらち)の狂名で知られた恋川春町(こいかわ・はるまち)は『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』で幕政を揶揄したかどで、お上から召喚状が下された。病気を理由に自宅に引き籠っていたが、数ヶ月後に亡くなった。自殺という見方もある。また、以前から眼をつけられていた山東京伝もついに手鎖五十日となってしまった。
 ちなみに、恋川春町は小石川春日町に住んでいたことから「し」と「ひ(日)」をとって「こいかわ・はるまち」に、酒癖がひどかったことから「さけのうえの・ふらち」と名乗った。
また、“文武”で思い出した。

 世の中は 蚊ほど煩(ウル)さき ものはなし 文武文武(ブンブブンブ)と 夜も寝られず

この有名な狂歌は大田南畝の作ではない。南畝『一話一言』に「コレ太田ノ戯歌ニアラズ偽作ナリ」とある。上手い戯歌ならばすべて南畝が作ったもの、と誰もが思っていたほど、彼の人気と実力は広く知られていたのだろう。しかしながら、幕政批判で仲間がことごとく処分されていたのだから、南畝自身も心中穏やかではなかっただろう。いい迷惑と思っていたかも知れない。

 南畝はこの時期の自粛の時代をへて、大坂銅座に出張する。銅の異称である「蜀山居士」から「蜀山人」と名乗った。大坂在中に上田秋成にも会っている。
 こうした南畝の生涯を論じたのが野口武彦『蜀山残雨』(新潮社)である。まさに「評伝」の名にふさわしい。あまたの資料から紡ぎ、撚り、ひとつの織物に仕立て上げるこの手さばきは鮮やかというより他ない。タイトルもいい。“残雨”の余韻が静かに漂っている。蛇崩れにとっては、「評伝」の手本としたい名品である。

 それにしても、南畝の洒落もさることながら、仲間の狂名も振るっている。先の「酒上不埒」をはじめ、
「元木網」(もとの・もくあみ)[京橋で銭湯を経営]
「知恵内子」(ちえの・ないし)[元木網の妻]
「朱楽菅江」(あけら・かんこう)[与力]
「加部仲塗」(かべの・なかぬり)[左官の棟梁]
「蔦唐丸」(つたの・からまる)[版元・蔦屋重三郎]

じつにあっけらかんとして愛すべき名ばかりである。
 皆と夜っぴで呑み明かしたいものだ。
 落語「備前徳利」から、

 酒のない 国へ行きたい 二日酔い 三日目にはまた 帰りたくなる



【今回紹介した本】
『蜀山残雨――大田南畝と江戸文明』野口武彦
新潮社
2003年12月20日 発行
¥2,000(税別)

【著者資料】
のぐち・たけひこ
文芸評論家。1937年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒業、東京大学大学院博士課程中退。神戸大学助教授、教授を歴任。主な著書に『江戸の歴史家』(ちくま学芸文庫)、『「源氏物語」を江戸から読む』(講談社学術文庫)などがある。
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2009年04月30日

『あったかもしれない日本――幻の都市建築史』橋爪紳也

 実現しなかったプロジェクトは、それこそ無数にあるだろう。そんな“あったかもしれない”都市計画や開発、建築物の設計――忘れ去られた「構想」を紹介したのが、橋爪紳也『あったかもしれない日本――幻の都市建築史』(紀伊國屋書店)である。
 関東大震災のモニュメントや甲子園の秘話、日本海−琵琶湖−大坂を結ぶ大運河計画、昭和15年(皇紀2600年)の万博とオリンピックなどなど、あまたの幻のプロジェクトである。
 資金の問題や社会的な事情からなしえなかった計画だが、しかしながら、「先人の『構想力』『空想力』を識ることから、私たちは未来の都市に関わるビジョンを描く営為の本質を学ぶことができる」のである。
 なるほど、各々の設計や計画には大きな「夢」が見て取れる。そこからは理想に向かってのひたむきさが、ひしひしと伝わってくる。何よりもビジョンがある。昨今の無秩序ともいえる開発とは雲泥の差である。
 まさに「ビジョンを描く営為の本質」がここにある。
 見習いたいものである。

 ここに僅かばかりの頁を割いて「忠霊塔」のデザインが紹介されている。
 昭和14(1939)年に発足した財団法人大日本忠霊顕彰会が募集した「忠霊塔」のデザインである。納骨堂を備え、皇戦に捧げた英霊を祀り、この犠牲精神を高調する。日本各地で実際に建てられた塔は、競技設計で入選したものをその土地の事情に応じて変更されたようだが、どの入選した設計も似通っている。
 確かに幼かったころ、近所に同様の塔があった。小学校に上がったばかりの蛇崩たちは、「ちゅうれっとう」と呼び親しんでいて、よくここで遊んだものである。壁をよじ登ろうとして、大人に叱られることもしょっちゅうであった。
年に一、二度、塔の中が公開された。戦死者たちのお骨や髑髏が並んでいたのを見た時にはゾッとした。それ以来、二度と入らなかった。肝試しの格好の場所になった。
 その後、何らかの事情で広場を含むこの忠霊塔は立ち入り禁止となってしまった。その頃は、「仏舎利塔」と名前が変わっていたように思う。
 多くの忠霊塔は戦後に壊され、跡形もなくなってしまったようだが、蛇崩の生まれ育った場所ではそのまま残ったのだろうか。その後、新たに化粧が施され、小奇麗な塔にリフォームされたようだ。
 現在も同じ場所から街を見下ろしている。



【今回紹介した本】
『あったかもしれない日本――幻の都市建築史』橋爪紳也
2005年11月9日 第1刷発行
¥2,200(+税)

【著者資料】
はしづめ・しんや
1960年、大阪市生まれ。
京都大学工学部建築学科卒。
大阪市立大学大学院文学研究科助教授。
建築史・都市文化論専攻。工学博士。
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2009年03月27日

『イルカと、海へ還る日』ジャック・マイヨール

 ハワイ島の沖、水深1000mの海で泳いだことがある。遥かにハワイ島が見えるだけで、周りには何もない。クルーザーが1隻、私たちをのせて海原を滑ってきた。エンジンを止めると、そこは波の音と渡る風の囁き以外に何もない。
 海底は見えるはずもなく、ただコバルトブルーのみの世界だ。わずかに潜ると、上も下も、右も左も、薄いコバルト色に包まれる。陽光に反射したようだ。水底に自分の影がうっすらと現れる。後光もさしている。まるでブロッケン現象だ。自分があんな深い所にいる。
 12月とはいえ、さほど冷たくもなく、海中ではゆったりとした気分を味わえた。水が妙に馴染んでいる。驚くほど、しなやかに泳げた。このまま、ずっと漂っていたい。不思議な感覚だった。

 映画『ル・グラン・ブルー』(1988年、リュック・ベッソン監督)といえば、ジャック・マイヨールをモデルにした作品としてあまりにも有名だ。閉息潜水の神様とまで云われたジャックは、1927年上海生まれ。幼少の頃は、毎年の夏休みを日本の唐津で過ごしている。そこで初めてイルカに出会った。『イルカと、海へ還る日』(関邦博・訳、講談社)によると、10歳の時に、群れのなかの1頭が寄ってきて、ジャック少年に興味を示したという。むろんジャックもイルカに魅かれた。親愛の情でいっぱいになり、彼らを仲間と思うようになったという。

 その後、北極のイヌイットたちとの生活やマイアミ水族館でのイルカたちとの仕事を経て、やがてフリーダイビング(素潜り)を勧められその世界へ。エンゾ・マイオルカ(1931−)との潜水世界記録の熾烈な戦いは今では神話にとなっている。
 1970年9月11日には、静岡県伊東市富戸沖で当時の世界記録76mをマーク。実際には80mに達していたものの、標識盤が引っ掛かりかろうじて76mの盤をつかんで浮上したという。そして76年11月23日には、ついに前人未到の水深100mという記録を打ち立てる。何とこのとき、彼は49歳であった。その後の彼の活躍はわざわざここで紹介するまでもないだろう。

 『イルカと、海へ還る日』の原題は『HOMO DELPHINUS』。いわば“ヒトイルカ”である。ヒトはイルカのように水棲能力を持っている。そしてイルカとコミュニケーションもできる。
 「そこにはブルー(青)しかない。私の体は、重い水の塊にのしかかられ、しだいにまわりのブルーに溶けていくようだった。上も下も左も右も、すべてが同じブルーに包まれる深海である。それを私たちは『グラン・ブルー』と呼ぶ。太古の昔、人間の祖先が住んでいたであろう世界だ。そこには風もなく、太陽の輝きもない。ただ奇妙な感覚だけが、私の体に伝わってくる。」
 イルカのように、しなやかに、自由に、グラン・ブルーを泳ぎたい。それがジャック・マイヨールの夢だった。

 『HOMO DELPHINUS』はその部分訳が雑誌に掲載されたことがある。そのときの雑誌の編集責任者が私だった。
 どのような導きなのか、私は今、富戸に住んでいる。そう、彼が世界記録を打ち立てた場所だ。キラキラと眩しく光るその海を眺めながら、この文章を書いている。
 今日の海は、穏やかだ。


【今回紹介した本】
『イルカと、海へ還る日』ジャック・マイヨール(関邦博・訳)
1993年2月8日 第1刷発行
1996年3月21日 第15刷発行
¥1,748(税別)(当時)

【著者資料】ジャック・マイヨール
1927年、上海に生まれる。
1966年、39歳のとき、水深60mのフリーダイビングに成功。
以後、この世界の第一人者的な存在となる。
2001年、死去。


イルカと、海へ還る日.jpg
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2009年02月05日

『東京の都市計画』越沢明

 東京23区の地図を眺めている。やはりおかしい。
 きれいに区画整理がなされているところと、そうでない場所の差がくっきりと表れている。多くの場合、整理された場所には幹線道路や準幹線道路、生活道路が効率よく張り巡らされている。未整理地区はスプロール(無秩序な市街化)である。しかもスプロールは高度経済成長期にも、いや戦前にすら、大がかりに手がつけられた形跡がない。昔の地図と見比べても、さしたる変化は見られないのである。
 震災や戦災で辛うじて残ったにしても、なぜ何十年も放ったらかしにされたのだろうか?

 杉並区の井荻周辺と、天沼、鷺宮地区の差は歴然である。また、世田谷区の九品仏、等々力、用賀も、周囲との違いを簡単に見てとれる。文京区小石川も幅の広い道路が500mだけ。付近とは違和感がある。もちろんこの場所だけではない。多くの箇所で、整理された地区といわゆる木賃ベルトが混在している。

 『東京の都市計画』越沢明著・岩波新書)でこの謎が解けた。
 現在の東京の都市計画街路網の原型は1928(昭和3)年に決定されたが、「人口500万人の時代に計画・設計し、しかも未完成の状態にある道路という根幹的な都市施設を、東京圏人口3000万人の時代に使用しているのである。今日、東京の都市空間が潤いとゆとりにかけるのは、この矛盾が根本的な原因となっている。」という。
 また、東京には都市計画が不在であったとよくいわれる。この意見に対しても、「東京には都市計画は存在した。ただ、当初の計画通りに実行されなかっただけなのである。計画の圧縮・変更のなかでプランナーは努力し、その都度、成果を残した。しかし、その後の世代がその努力を忘れ去り、ただそのストックを利用するのみで、新たなストックを追加することに成功しなかった。これが実態であろう。」とも語る。
 当初の計画、そしてその実行と挫折。この努力の歴史を本書が詳しく紹介している。
 これらが完成していれば、東京はもっと住みやすく、もっと安全な街になっていたことであろう。そう確信した。

 上述の杉並区は、当時の井荻村が土地区画整理事業組合を設立して区画整理にあたったもの。先見性のある地主らが自ら組合をつくって宅地開発をしたのである。1925(大正14)年のことである。
 世田谷区の場合も、地主らが耕地整理組合をつくった。1926(大正15)年3月、玉川村村長・豊田正治が中心となって設立した。中新井村(現・練馬区豊玉・中村)も組合(1933[昭和8]年)によって区画が整理された場所である。
 戦前に、明確なポリシーをもって宅地開発がなされたものには、電鉄系や学校法人系の資本による分譲地開発(田園調布[1918年]、常盤台[1935年]、成城学園[1925]など)と、こうした郊外地主らの区画整理組合によるものと2つの系統があるという。いずれの開発地も今日では高級住宅地になっている。

 関東大震災(1923[大正12]年)以降、人口増加に伴って生活の場は東京郊外に移っていく。これまでの、その場所とともにあった文化(貴族文化や町人文化など)から、不特定多数の集う自由な盛り場の文化に移行し始める。住居と仕事場が分離し、多くの勤め人が盛り場に立ち寄る。ここでは身分は関係ない。いわば近代の特権であった。(鈴木博之「都市の新しい貌」『1920年代の日本展』1988年、朝日新聞社)
宅地の郊外化はこうして加速してゆく。

 因みに上述の文京区小石川の道路は、戦災復興計画の遺産である。環状3号線として幅員約40m、中央分離帯に桜が植えられ美しい並木道になっている。ただ延長は500m。以後の事業化の目処は立っていないようだ。

 話は飛ぶが、2008年4月に閉店した上野駅前の「聚楽」。この聚楽が入っていた上野百貨店の場所は、もともと関東大震災による帝都復興事業によって整備され、美しい石積みの傾斜緑地だったという。これが戦後の露天整理のために、その集団移転先として建てられたものだった。広小路の露天の収容先だったのである。
 渋谷の露天も移転先がなかったため、東急に渋谷地下街を建設させ、そこに収容したものである。今の「しぶちか」である。
 それから、戦災によって生じた燼灰。捨て場がないため、これが道路に溢れ出し、この処理のために不要河川を埋め立てたという。苦肉の策だった。
 本来の都市計画である戦災復興事業にブレーキをかけながら、都市計画とは関係ないこうした露天対策とガラ処理を、都市計画の責任者に押し付けたようである。都知事をはじめ高級官僚など、都市計画に対する無理解によるものだったと想像される。

 「戦災復興事業を大幅に縮小したツケが今日、都市計画の“負の遺産”として重くのしかかっているという事実は厳粛に受け止めなければならない。」

 昔の道や町並みは風情がある。だが、緊急車輛が入れないのでは困る。
 こうした問題は、すぐさま対処しなければならない。
 都市計画には、大きなヴィジョン、グランド・デザインが必要なのだ。



【今回紹介した本】
『東京の都市計画』越沢明
岩波新書
1991年12月20日第1刷発行
1994年11月5日第5刷発行
¥650(本体¥631)(当時)

【著者資料】(当時)
こしざわ・あきら
1952年東京生まれ。
1982年東京大学大学院博士課程修了。工学博士。
長岡造形大学助教授。
専攻は都市計画、社会資本論。
著書に『東京都市計画物語』(日本経済評論社)などがある。


東京の都市計画 (岩波新書)東京の都市計画 (岩波新書)
販売元 : Amazon.co.jp 本
価格 :
[タイトル] 東京の都市計画 (岩波新書)
[著者] 越沢 明
[種類] −
[発売日] 2003-04-18
[出版社] 岩波書店

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2009年01月08日

『ねじれた伊勢神宮――「かたち」が支配する日本史の謎』宮崎興二

 北国の小さな城下町で生まれ育った。
三層の天守閣が残る城址にほど近い南西、裏鬼門に三十三の禅寺が今も立ち並んでいる。城が攻め落とされてもこの地へ逃れ、最後まで戦うために作られたという。小山を削ったこの要害は、江戸時代には堀もあったというが、蛇崩が気合を入れてかくれんぼをしていた頃は、土塁しか残っていなかった。
 桝形を抜け寺町に入ると、間もなく正面に黒門があり、この小門をくぐると左側に今にも崩れそうな傾いだお堂があった。当時の素封家が天明・天保の大飢饉の死者の霊を慰めるために建立したそうである。みんな六角堂と言っていたが、じつは八角の稜形であった。
なぜ八角なのに六角と言っていたのか、今もって不思議である。

 八角と言えば、日本の神々は「八」が好きである。
 『古事記』にもあるように、八紘に広がる宇宙の中、イザナギとイザナミは八尋殿(やひろでん)に住み、大八島(おおやしま)(=日本)を生み、子どももたいていは3人と5人、合わせて八人ひと組の神々を生んでいる。
 スサノヲは八握りの髭を生やしてアマテラスのもとへ乗り込み、8人の王子を生むなどして大暴れしたがために、八百万の神々から追放され、出雲に降り立つ。そこで、八俣の大蛇を退治して、8人娘の末娘を娶ることになる。
 その時に詠んだ歌が、
 「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」
 その後、スサノヲの末子である八千矛神(ヤチホコノカミ)=大国主命が、総勢八十人の兄たちからいじめられながらも日本を支配するようになるのである。
前方後円墳の時代以降は、天智天皇陵も、天武・持統合葬陵も、文武天皇陵も八角形である。また、天皇家の紋章は、八の2倍の16弁の菊。そして祖先から、八咫(やた)の鏡、八重垣(やえがき)の剣(草薙[くさなぎ]の剣、天叢雲[あめのむらくも]の剣とも云う)、八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)の三種の神器を受け継いでいる。
 即位式の折には、八角形の高御座(たかみくら)に入って祝詞を読み上げるし、その時皇后も八角形の御帳台(みちょうだい)に立つ。

 それに比べると、「六」という数字には死のイメージが付きまとう。
 平安時代、平清盛は京都の六条通りに居住していたが、彼は京の六つの入り口に、死人がさまよう「地獄」「餓鬼」「畜生」「修羅」「人間」「天」という六道にちなんだ地蔵菩薩を祀った。地蔵堂のほとんどが六角堂である。
 近所の寺は六波羅密寺と改称され、付近には六道珍皇寺が建てられる。
 鎌倉時代になると、六波羅探題(今でいう警察)が設置され、六条河原は刑場となる。
 「つまり六条の六波羅探題に捕まって六条河原で処刑され、南無阿弥陀仏の六文字を聞きながら六道珍皇寺で六道銭(棺に入れる六文の銭)をもらってダビにふされたあと、六道の辻から六角灯籠に照らされて六道に入るというのが当時の極悪人のフルコースだった。」

 宮崎興二『ねじれた伊勢神宮』(祥伝社)は、こうした数の不思議のみならず、「かたち」に見る日本の歴史・民俗の秘密について紹介する興味深い良書である。ここで述べたエピソードは、すべて本書で紹介されている。

 しかしながら、あの六角堂はやはり不可解だ。
 神道には常住(永遠不変)や清浄の観があり、仏教には無常や不浄の観を想う。冠婚葬祭を見ても、祝い事は神道、悲しみ事は仏教が多い。
朽ちかけた六角堂は内部はらせんになって上り、てっぺんからまっすぐな階段で降りるという構造になっている。別名、栄螺(さざえ)堂。何やら胎内回帰にも似ている。新たに生まれ変わるという意味か。死と再生――神と仏の出会いの場だったのか。


【今回紹介した本】
『ねじれた伊勢神宮――「かたち」が支配する日本史の謎』
祥伝社黄金文庫
1999年1月20日 初版第1刷発行
¥533+税(当時)

【著者資料】(当時)
宮崎興二(みやざき・こうじ)
1940年、徳島県生まれ。
神戸大学勤務を経て、京都大学教授。
四次元建築論で工学博士。


ねじれた伊勢神宮―「かたち」が支配する日本史の謎 (ノン・ポシェット)ねじれた伊勢神宮―「かたち」が支配する日本史の謎 (ノン・ポシェット)
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[タイトル] ねじれた伊勢神宮―「かたち」が支配する日本史の謎 (ノン・ポシェット)
[著者] 宮崎 興二
[種類] 文庫
[発売日] 199..
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2008年12月18日

『無門関』無門慧開

 幡が風にたなびいている。二人の僧がこれを見て言い争っていた。
 「これは、幡が動いているのだ」
 「いいや、風が動いているのだ」
 そこへ通りかかった六祖慧能(えのう)が、
 「幡が動くのでも、風が動くのでもない。あなた方の心が動くのだ」といった。
 二人は恐れ入ったという。

 学生時代の友人とこのテーマについて議論したことがあった。勿論、結論など出るはずもない。二人の僧の意見も、また六祖慧能の教えも、いずれも自己の解釈にすぎない。真実はその先にある。これが当座の解答であった。むろん、これも自己の解釈である。

 幼少の頃に寺町で育ち、墓所を遊び場にしていた蛇崩は、寺が好きである。あの何ともいえぬ静けさを好む。何しろ三十三の禅寺が立ち並ぶ街。かくれんぼをするにも気合が入った。オニになったら夕暮れまで捜し続けなくてはならない。もっとも隠れる方も気が気ではない。何かの気配を感じながら、ゾクゾクしながら隠れ続けるのだ。ともに、必死なのは当然である。悪い奴らは示し合わせて、途中で帰ってしまうこともあった。オニがたったひとりで、いるはずもない仲間を探し続けるのだからたまったものではない。
 それにしても、禅寺特有の簡素で力強い佇まいには、今も心惹かれる。

 古人の古則話頭(こそくわとう)を鏡として、弟子たちを悟りへと導く指導方法を「看話禅」(かんなぜん)というが、『無門関』(岩波文庫)(西村恵信・訳注)もそのうちの有名な一巻である。無門慧開(むもん・えかい)[1183〜1260]が、参禅者に対して古則話頭を示して指導した、その時々のメモをまとめたものである。
 先の幡の話「非幡非風」についても紹介されているが、無門はこれに意見を付け加えている。
 「是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、是れ心の動くにあらず。甚(いず)れの処にか祖師を見ん」
 風でも幡でも、ましてや心でもない。何処に六祖の言い分を見るべきか?というのである。答えは、あなた方に開かれている。

 禅の公案や問答は難解である以上に、意味そのものをひっくり返してしまう。時としてナンセンスなこともある。
真理を記述するために論理を解体しつつも、再び論理に戻るさまは哲学的議論にも似ていよう。言語によって分節化することで、独立した事物の集合体として現れるこの世界にあって、分節化以前の、つまり記号の網に覆い尽くされる前の姿に接するためには、わたしたちはどうすべきであろうか?
 ハイデガーのいう、「存在」と「存在者」の関係と同じである。わたしたちは「存在者」を「実在」と見誤り、「存在」そのものを喪失しているというのである。
 では、どうすべきか?
 言語の使用を全面的に停止るのか?
 そうではなく、逆に分節的なこの言語を使って覆いを剥ぎとり、非分節の姿に立ち帰らせる。そのために、有意味な記号を記号によって無化し、意味をずらせ宙に浮かせるのである。ハイデガーの用語に「Entwurf」という言葉がある。自己の可能性へ向けて開かれてある様態を示す言葉で、ふつう「投企」と訳す。ところが、文脈によっては意味をずらし「企投」「企図」「脱投」といった苦心の訳語に変化することもある。言語によって固定化されることを恐れ、それを回避するために意味をずらしていく。言語体系の中で言語を組み替えていく作業。ある意味でこれが哲学的作業ともいえる。哲学用語が難解であるのはこのためである。ちなみに蛇崩は、この「Entwurf」という言葉が好きである。

 もちろん禅では、記号によって無化したままでは終わらない。再び有意味の次元に戻ってくる。「山」は「山」≠「山」であるが、「山」=「山」なのである。加えて、禅は哲学ではない。あくまでも実践である。

 言語は言語によって解体されるが、言語によって豊かに構築もされる。
 わたしたちは自己の内で完結した対象ではなく、 自己の可能性へ向けて常に開かれてあるのだ。
 そして、言語の覆いを引き剥がすことができるも私たちなのだ。



【今回紹介した本】
『無門関』西村恵信・訳注
岩波文庫
1994年6月16日 第1刷発行
1996年4月5日 第5刷発行
¥520(本体¥505)(当時)


無門関 (岩波文庫)無門関 (岩波文庫)
販売元 : Amazon.co.jp 本
価格 :
[タイトル] 無門関 (岩波文庫)
[著者]
[種類] 文庫
[発売日] 1994-06
[出版社] 岩波書店

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2008年10月31日

『終戦日記』大佛次郎

 どんな組織もやがては腐っていく。そうならないために、時々の改革が必要となる。改革は苦痛を伴う。だが、この痛みから逃げることは、その先のさらなる痛みへの遭遇を意味する。取り返しのつかない事態に、立ち向かうことができるのだろうか。時に至っては、もう遅いのである。

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫)は、昭和19年9月から翌年10月までの日記である。戦災による人心の荒廃や、軍部や官僚の腐った様子もそこここに見てとれる。
 例えば、
「Kの話、主計をしているから分るが軍人ぐらい金に汚いものはない。それから地位を守る為にさかんにつかいものをしてそれを経理に払わせる。機密費は200ぐらいなので払い切れぬ。すると露骨不機嫌なのである。」(昭和19年10月21日)
「今ちゃん比島行、レイテは天目山とのことにて派遣さられ行って見ると、レイテは一箇月前に駄目になっていた。かかる事情中央では知らず派遣したる也。連絡がなっていないというよりデタラメに戦争しいるなり。」(昭和20年7月29日)
「林房雄の裏に高射砲陣地出来、そこへ砲を運び上げるのに他に地所があるのにとうなすの畑にひき入れ、めちゃくちゃにする。林夫人がなじると、戦争ととうなすとどっちが重要か知っているかという。」(昭和20年8月4日)
「宗源(朝比奈宗源:臨済宗の禅僧――引用者註)、国民を敵襲にさらし自分たちは穴へ隠れる工夫のみしていて何が皇軍かと激しく語る。」(昭和20年8月18日)
「敵占領軍の残虐性については軍人から出ている話が多い。自分らが支那でやって来たことを思い周章しているわけである。日本がこれで亡びないのが不思議である。」(昭和20年8月20日)

 戦争に突っ走っていった軍部は、すでに腐った組織となっていた。軍部に限らず官僚もまた然り。良識ある声は怒号によって掻き消される。感情をコントロールすることはもはや出来なかったようだ。その点、大佛は冷静さを失わなかった。それが『終戦日記』である。

 ところで、終戦記念日が近づくと戦争を題材にした番組が多くなる。もともと日本が仕掛けた戦争であるにも拘わらず、その原因には目をつぶり、戦争被害による悲惨さをクローズアップしてみせる。戦争は悲惨である、戦争はいけないと強調するのである。
どんな被害を受け、どんなひどい目に遭ったのかを知ることは大切であろう。
だが、どんな被害を彼の地でもたらし、どんなひどい目に遭わせたのかを、多くは語ろうとしない。

 何をされたか、それ以上に何をしてきたのか、語るべきである。
 それでこそ、平和を愛すると云えるのである。




【今回紹介した本】
『終戦日記』大佛次郎
文春文庫
2007年7月10日 第1刷
¥943(+税)
※単行本『大佛次郎 敗戦日記』(1995年4月、草思社刊)を増補改題。

【著者資料】
大佛次郎(おさらぎ・じろう)
明治30(1897)年、横浜市生まれ。
本名・野尻清彦。長兄は英文学者の野尻抱影。
「鞍馬天狗」シリーズをはじめ、『赤穂浪士』『パリ燃ゆ』など、時代小説やノンフィクションと幅広く作品を手がけた。
昭和48(1973)年逝去。
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