2009年12月03日

『鏑木C方文集』鏑木清方

 この夏は資料を読み込む毎日だった。不便な土地にあって、遠路、図書館へも幾たびか足を運び、少ない資料から事実を確認する。資料によっては同じ事件を扱っていても、その日付が異なっていたりと、いわゆる“ウラ”を取らなければならない。おかげで結構な時間を費やしてしまった。
 こうして構成した資料をもとに、秋は執筆にあたった。連日の書きものは、連載を思わせる。毎日の連載はかなりきついものだと悟った。蛇崩には大変な作業である。共著のこの本は、幕末から明治において、日本が闘争を通して如何にして近代国家になっていったか、その戦いを改めて見ていこうというものである。
 蛇崩の担当は明治期である。次第に「国民」と「国家」が意識され、「近代」を獲得していく。むしろ、否応なく「近代」に呑み込まれていったのが明治という時代だったというべきかも知れない。国内の暴動鎮圧と他国(朝鮮)への侵略。こられは表裏一体のものだったと改めて感じた。一歴史好きがこのような本を書くことができて光栄であるし、何よりも良い勉強をさせて戴いたと思っている。そんな専門家でもない者が執筆を通して感じたことは、日本は何と馬鹿げたことをしでかしてしまったのかということだった。泉谷しげる氏ではないけれど、まさに“戦を仕掛けるのはうまく、戦が国の栄となる”(「国旗はためく下に」)、その下地が明治に形作られていったということである。

 先日、東京のサントリー美術館で「清方ノスタルジア〜名品でたどる鏑木清方の美の世界」展を観てきた。1990年の横浜美術館、’99年の東京国立近代美術館以来である。’90年の展覧会では、当時、美術雑誌の編集部に在籍していた蛇崩が清方の特集を組んだ。この時も資料に当たり、掲載作品の選定に苦心した。なにしろ名作揃いであったからだ。
 その資料が清方自らの手になる『鏑木C方文集』(白鳳社)である。名文筆家としても知られる彼の随筆は、日本画作品ともども品格がある。絵の場合、画品というが、彼の文章も画品と言っていい空気感がある。美しい文章である。
 展覧会で「深沙大王(じんじゃだいおう)」(明治37年)、「嫁ぐ人」(明治40年)が異彩を放っていた。「深沙大王」は泉鏡花の小説を脚本化したものの絵看板として描かれた作品である。だが、異彩は絵そのものではない。表装があり得ないのである。柿色に薄桃色が混ざった色。「嫁ぐ人」は画題の華やかさを重く消し去った濃いえんじ色である。この2作品が並べられているのである。否が応でも目立つ。自作品はおろか、隣の作品をも打ち消しあっているかの如くである。唖然としてしまった。いい作品も表装如何では台無しになってしまう。

 明治37年といえば日露戦争が起こった年である。9月には与謝野晶子「君死にたまふこと勿れ」が、また、「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。」の揚言で始まる島崎藤村の『藤村詩集』もこの月であった。日露戦争による文学的な反映が次第に見えてくる。
絵画の場合はそうした反映は目立たないようだ。「深沙大王」は、演目の変更で上演されなかったため、10月のグループ展に出品したものである。モダンな作である。この頃、日本軍は満州の遼陽を占領するも、ロシア軍の大規模な逆襲に手を焼いていた時期である。

 とはいえ、清方の、市井のおだやかな暮らしへの眼差しが蛇崩は好きである。
 静謐な展観であった。


【今回紹介した本】
『鏑木C方文集』(全8巻)鏑木清方
白鳳社
第1刷発行 昭和54年2月25日〜昭和55年9月20日
¥3,800〜4,900(当時)

【著者資料】
かぶらき・きよかた
日本画家。明治11(1878)年〜昭和47(1972)年。
昭和29年、文化勲章を受章。
posted by 蛇崩緑堂 at 11:22| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月01日

『ノアノア タヒチ紀行』ポール・ゴーガン

 遺作ともいうべき彼の大作を初めて観た。
 「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」
 ポール・ゴーギャン晩年の作である。
 縦139.1cm×横374.6cmの大画面は、蒼い色調に支配され、ところどころに配された裸の女性たちの黄褐色が印象的だ。49歳から50歳の頃にかけて制作されたこの大作は、彼の最愛の娘の突然の死の知らせを受け取り、彼自身、眼病、足の傷の痛み、梅毒、心臓発作と満身創痍のなか、自殺を決意した時期に描かれたものだった。19歳の娘の死は、相当な衝撃だっただろう。
 一命を取り留めた彼は、この後、タヒチからマルキーズ諸島に移り住み、間もなくこの地で没する。享年54歳。

 ゴーギャンがタヒチへ向かったのは1891年(43歳)、ゴッホの死の翌年である。ある日ふと見かけたタヒチ島の案内記に、たちまち魅了されたという。約2年間の滞在の様子を描いたのが『ノアノア』ポール・ゴーガン著、岩波文庫)である。
 フランスに帰国してから、タヒチで描きためた作品を売ろうと個展を開いたものの、売上は芳しくなく、やむなく滞在記を雑誌などに投稿しようと書いた。
 島での生活や風俗はもちろんだが、興味深いのは現地住民の信仰やそれに纏わる天地創造や天空の神々の話、いわば神話である。波羅門教の影響もみられるようで、ゴーギャンも指摘しているところである。
 こうした土着的な信仰は、しかしながらフランスの植民地政策によってキリスト教が布教され、生活も制度も慣習もいっぺんに欧化されてしまった。“南の楽園”を夢見たゴーギャンの目には、タヒチはもはや楽園ではなかったようだ。よりプリミティヴな生活を求めて島の反対側に移り住む。草ぶき屋根と竹でできた小さな小屋を借りて住まうようになった彼にとって、心安らぐ幸せな時間だったかも知れない。

 帰国後のゴーギャンは、文明の退廃から逃れるために再びタヒチへ渡る。
 欧化ではなく土着性へ、一神教ではなく古来よりの神々の信仰へ、論理ではなく研ぎ澄まされた感覚へ――それはまさしくタヒチという自然の中にあった。
 「我々はどこから来たのか? 我々は何者か? 我々はどこへ行くのか?」
 この問いかけこそ、「存在」と「時間」を結びつける「自然」への回帰を意味するものであった。


【今回紹介した本】
『ノアノア タヒチ紀行』ポール・ゴーガン/前川堅市・訳
岩波文庫
昭和7年3月25日 第1刷発行
昭和35年10月25日 第16刷改版発行
昭和45年9月30日 第27刷発行
¥ ★ひとつ(当時)

【著者資料】ポール・ゴーギャン
画家。1848年〜1903年。
posted by 蛇崩緑堂 at 10:59| 東京 ☁| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月30日

『茶の本』岡倉覚三

 中国禅の大家・趙州(じょうしゅう)和尚にこんなエピソードが残されている。

 ある日、新参の僧二人が趙州和尚のもとを訪ねると、和尚は、
 「前にもここへ来たことがおありか」と尋ねた。
 「ございません」と一人の僧が言うと、
 「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。[=きっさこ]
 もう一人の僧にも「前にもここへ来たことがおありか」と尋ねると、
 「来たことがございます」。「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。
 この様子を見ていた院主が和尚に、「かつて来た者にも、来ない者にも喫茶去とおっしゃるが、何故ですか」。
和尚は質問には答えずに、「院主さん」と呼んだ。院主は、すかさず「はい」と返事をすると、和尚は「まあ、一服召し上がれ(喫茶去)」。

 茶道につながる茶の湯とは、もともと禅における「茶礼(されい)」からきているという。宋の時代、いわゆる南方禅宗が「茶」の儀式を確立したそうだ。後に元によって宋代の文化が破壊されてしまう。ところが、宋の茶は栄西禅師の帰国とともに日本に伝わっていた。彼が植え付けたうちのひとつが、京都の宇治である。本国では廃れてしまった習慣が、日本で生き延びたというわけだ。この茶の儀式を将軍足利義正が奨励したことで茶の湯は大いに花開く。
 日本の文化は「茶の湯」なしには語れず、また「茶の湯」がなかったらこれほど豊穣なものにはならなかっただろう。

 この「茶」という東洋精神の真髄を西洋世界に伝えたのが『茶の本』(岩波文庫)である。作者は、フェノロサに感化を深く受けた美術評論家・岡倉天心。すでに美術雑誌『國華』を創刊し(2008年に創刊120周年を迎えた)、東京美術学校の校長職を辞し、日本美術院を創立していた。ボストン美術館の東洋部顧問として1年のうち半分は彼の地に滞在していた。『茶の本』はその頃の作である。
 原題は『THE BOOK OF TEA』(1902年)。ニューヨークのフォックス・ダフィールド社から刊行されている。フランス語訳もドイツ語訳もその後に出され、天心の名は世界的に知られていたが、日本語訳は23年も遅れて雑誌に掲載されたという。
 「茶」をめぐっての珠玉の「エッセ」である。

 千利休は、「茶の湯とは、ただ湯をわかして茶をたてて飲むばかりなる本(もと)を知るべし」と言っている。この「本(もと)」こそ、天心が伝えたかったものかも知れない。

 岡倉天心といえば、もうひとつ。
 彼の作である日本美術院院歌の歌詞がいい。
 「谷中鶯初音の血に染む紅梅花 堂々男子は死んでもよい
  奇骨侠骨開落栄枯は何のその 堂々男子は死んでもよい」

 覚悟が在る。思想が在る。



【今回紹介した本】
『茶の本』岡倉覚三/村岡博・訳
岩波文庫
1929年3月10日 第1刷発行
1981年9月10日 第61刷発行
¥100(当時)

【著者資料】
おかくら・かくぞう
美術評論家。1862年〜1913年。東京美術学校校長、日本美術院創立、ボストン美術館顧問。東洋美術の紹介に努めた。
posted by 蛇崩緑堂 at 22:08| 東京 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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